静か さや 岩 に しみ入る 蝉 の 声 意味。 閑さや岩にしみ入る蝉の声

閑さや岩にしみ入る蝉の声

静か さや 岩 に しみ入る 蝉 の 声 意味

この作品の上五についてお訊ねします。 ネットで見ると「閑かさや」と「閑けさや」の両派があります。 次の何れか一項目以上にお答え下さいませ。 1高校以下の教科書では、どう表記され、どう音読されていますか。 それは教員個人の裁量ですか。 それとも何かしらの公式な見解に基づいているのですか。 2 現代では「しずかさや」と音読するものだとの説は誰の、どんな考証に基づいていますか。 3 現代では「しずけさや」と音読するものだとの説は誰の、どんな考証に基づいていますか。 4 他者の考証を俟つまでもなく何がしかの根拠を背景にして、どう音読するべきか自説をお持ちの方は居られますか。 単に書籍に振り仮名がしてあるとの主張は困ります。 そう仮名を振る根拠が知りたいです。 よろしくお願いします。 以下の文献で、「しづかなり」「しづかさ」、および「しづけし」「しづけさ」の例を拾ってみました。 「しづか」系は、以下に示す(数字はページ・行)24例の所在が確認できましたが、「しづけし」系は1例もありませんでした。 ここからどうお考えになるかは、質問者様にお任せするとして、私はデータを提供するだけで失礼いたします。 なお以下に挙げる各例はまったく吟味しておりません。 芭蕉以外の人物の使用例も含まれています。 同じ句が重複していることもあります。 いちいち例文を挙げればよいのでしょうが、さすがに面倒なのでやめました。 あしからずご了承ください。 日本古典文学大系45巻『芭蕉句集』 46・8 102・11 173・8 348・5 374・4 406・3 429・2 457・2 497・2 513・5 日本古典文学大系46巻『芭蕉文集』 76・14 83・3 87・3 145・2 147・15 156・13 174・1 179・15 182・11 184・8 186・7 189・2 213・15 419・11 この回答への補足 何の疑問もありませんが手間暇の掛かったお答に対して、あまり素っ気無いお礼はできない気がしますので疑問の生じた背景を記します。 急がば回れで「静かさ」と「静けさ」から始めます。 1 「静かさ」と「静けさ」は似て非なる単語で、私の感覚では、ア)とウ)は自然だが、イ)は不自然である。 ア)A車とB車、どちらが静かだろう、「静かさ」を比べてみよう。 イ)A車とB車、どちらが静かだろう、「静けさ」を比べてみよう。 ウ)C基地とD基地、最近どちらが静かになっただろう、「静かさ」を比べてみよう。 つまり、 「静かさ」は静かな状態の度合いであって幅があり騒々しいものにも適用できる場合がある。 「静けさ」は極めて静かな状態の度合いであって幅が狭く静かでないものには適用できない。 2 翻って芭蕉の時代の「閑かさ」と「閑けさ」に差異はなかったのか。 現代人の私の感覚では、エ)とカ)は自然だが、オ)は不自然である(エは異論があるかも)。 エ)縁日のE寺と縁日のF寺、どちらが閑かだろう、「閑かさ」を比べてみよう。 オ)縁日のE寺と縁日のF寺、どちらが閑かだろう、「閑けさ」を比べてみよう。 カ)雪の日の深夜と雪の日の明け方、どちらが閑かだろう、「閑けさ」を比べてみよう。 つまり、 「閑かさ」は閑寂な状態の度合いであって幅があり、全く閑寂な状態から閑寂でない状態まで適用できる場合がある。 「閑けさ」は極めて閑寂な状態の度合いであって幅が狭く閑寂でないものには適用できない。 こういう事情がなかったといえるのか。 32がはっきりしないと判らないが、芭蕉の感動は立石寺境内の絶対の閑寂にあるのだから「閑けさや」ではないのか。 4芭蕉は「入」と書いて「いる」と読ませている。 「閑さや」と書いて「しづけさや」と読ませる位のことはしなかったか。 以上が疑問の発端でした。 詳細な至れり尽くせりのお膳立てには頭が下がります。 短兵急に決め付けてよいのか否か判りませんが、お蔭様で受け売りでなく自分なりの現時点での結論をもてました。 それぞれ参考になりましたが、今回の質問に最も直結すると思われる用例についてのみ触れておきます。 日本古典文学大系46巻『芭蕉文集』、P419・11に「しづかさやゑかゝる壁のきりぎりす」があります。 これは「閑さや岩にしみ入蝉の声」と句想(というのか、感動というのか)が全く同一です。 この作品から芭蕉はこの種の閑寂から受ける感動を「しづかさや」と表現していた事が判ります。 よって「閑さや」は「しづかさや」と仮名を振り「しずかさや」と音読されるべきだと判断しました。 たった一例から結論付けて良いものやら心配です。 が、同一人物の元禄4年と元禄2-4年の作ですから、この件に限っては結論づけて良いのだと思います。 こんな結論をもちました。 素人の暇つぶしみたいな質問に正面から時間を掛けて下さって感謝しています。 実証とはこういうことだと教えられた気がします。 毎度のことで有り難とうございます。 またの機会にもよろしくお願いします。 この件は全く、その通りでした。 休日になれば回答してやろうという方があってはいけないので20日(日)24時までは締め切らないでおきます。 ご了承下さいませ。 >(閑さや岩にしみ入蝉の声)「閑かさや」? 、「閑けさや」? 念のために「井筒屋本」と「西村本(素龍清書本)」の二系統の影印本(原本の写真印刷本)を数種類確認したのですが、表記は全て「閑さや」でした。 また、かなを付してもありませんでした。 つまり、「閑かさや」と「閑けさや」のどちらにも取れると言うことです。 さらに、古典文学大系、古典文学全集、その他の文庫判等を調べると、「閑かさや」で判を押したように統一されていました。 これから考えると、「閑かさや」が定説化しているものと考えられます。 ただ、古い石碑などのは「閑けさや」の表記が見られました。 「閑かさや」の根拠についてはNo2の方がおっしゃっていますので、参考までに印刷物の現状について書きました。 この回答への補足 私の知る限り(といっても井戸の世界ですが)全て 表記は「閑さや」 仮名を振る場合は「(しづか)さや」 現代の仮名遣いでは「しずかさや」 です。 定説になっていることにも異論はありません。 「閑さや」と表記して「しづかさや」と発音していたと何故判るのですか。 「しづけさや」と読んでいた可能性はないのですか。 芭蕉の時代には「閑(しづ)かさ」という名詞はあったが「閑(しづ)けさ」という名詞はなかったことが判っているのですか。 仮に「閑(しづ)かさ」と「閑(しづ)けさ」の両方があったとすれば、立石寺の境内に立つ芭蕉が「閑(しづけ)さ」でなく「閑(しづか)さ」を選んだと何故いえるのですか。 両者の意味の異同を知る必要がありませんか。 わざわざ調べて下さって有り難うございました。 事情が許せばご返事を下さいませ。 芭蕉の句は、「閑さや岩にしみ入る蝉の声」です。 「岩」や「声」は旧字で書かれていますが、この表記は私の手元にある杉浦正一郎校注の『素龍清書本』であるということが底本であるということを疑っても、何の論証にもなりませんで。 で・・・冒頭の「閑さ」をどう読むかが、論点だと思います。 「しずかなり」という語をという形容動詞を調べたことがない人がいるようですが、古語辞典には「閑かなり・静かなり」の両方がきちんと載っています。 ただ、芭蕉(一茶ではありませんW)が言いたかったのは、#2さんが仰っているように「閑寂」ということではないでしょうか。 それを考えると、「しずけさ」ではなく、「しずかさ」という読みが正解のような気がします。 私が前述した岩波新書は昭和32年の初版であり、ある程度現在より信頼のおける時代です。 ルビが振ってあるという根拠は御免だということですが、私はその時代のルビは信頼したいと思います。 どうも、岩波文庫の信者の意見で申し訳ありません。 深い理解はできませんが記載のあることは承知しています。 ANo. 2のお礼には 「芭蕉の時代に形容動詞「閑か」が存在したからといって」とあります。 古語辞典に形容動詞「しづか(閑か)」があることを知らない人間には書けない表現です。 それを考えると、「しずけさ」ではなく、「しずかさ」という読みが正解のような気がします。 「閑寂」を詠んだことに異論はありません。 「閑寂」を詠むと、「閑さや」と表記して「しづかさや」と発音していたと何故判るのですか。 「しづけさや」と読んでいた可能性はないのですか。 芭蕉の時代には「閑(しづ)かさ」という名詞はあったが「閑(しづ)けさ」という名詞はなかったことが判っているのですか。 仮に「閑(しづ)かさ」と「閑(しづ)けさ」の両方があったとすれば、立石寺の境内に立つ芭蕉が「閑(しづけ)さ」でなく「閑(しづか)さ」を選んだと何故いえるのですか。 両者の意味の異同を知る必要がありませんか。 岩波とルビの件は私が関与する話題ではありません。 有り難うございました。 事情が許せばご返事を下さいませ。 ところで、漢字表記にすると「しづかなり」は「静かなり」又は「閑かなり」ですが、「しづけし」は「静けし」です(広辞苑、角川古語辞典他)。 芭蕉の句は「閑」ですから、形容動詞の「閑かさや」となります(芭蕉の境地から単に物音のしない「静か」でなく、「閑寂」であることは当然です)。 ちなみに権威ある解説書(萩原恭男校注の岩波文庫や高校生向け参考書等)は、振り仮名又は送り仮名で「しづかさや」と読んでいます。 それらも根拠について触れているわけではないので、以上は4の自説ということになります。 この回答への補足 [「しづかさ」と読めば、形容動詞「しづかなり」の語幹+名詞化の接尾語「さ」ということになり、「しずけさ」と読めば、形容詞「しづけし」の語幹+同上「さ」ということになります。 ところで、漢字表記にすると「しづかなり」は「静かなり」又は「閑かなり」ですが、「しづけし」は「静けし」です(広辞苑、角川古語辞典他)。 芭蕉の句は「閑」ですから、] と [ちなみに権威ある解説書(萩原恭男校注の岩波文庫や高校生向け参考書等)は、振り仮名又は送り仮名で「しづかさや」と読んでいます。 それらも根拠について触れているわけではないので、以上は4の自説ということになります。 ] の部分には一字一句異論がありません。 疑問があるとすれば [形容動詞の「閑かさや」となります(芭蕉の境地から単に物音のしない「静か」でなく、「閑寂」であることは当然です)] の部分だけです。 芭蕉の時代に形容動詞「閑か」が存在したからといって名詞も「しづかさ」だけが存在し、「しづけさ」は存在しなかったと言えますか。 「しづけさ」も存在したとすれば当時の「しづかさ」と「しづけさ」の微妙な意味の異同を考えなくても差し支えありませんか。 芭蕉の時代に名詞「しづけさ」が有ったか否か、「しづかさ」と「しづけさ」の当時の意味上の異同についてご意見をおもちの方は居られませんか。 今日の感覚を当て嵌める気はありませんが因みに述べれば、「静かさ」と「静けさ」はかなりニュアンスが違います。 「しづかさ」と「しづけさ」も違った可能性はありませんか。 有り難うございます。 またの機会にもよろしくお願いします。 つまり、古語を調べれば正解が見つかります。 私の持っている旺文社古語辞典によると、 古語では形容詞の「し[づ]けし」です。 ですから「し[づ]けさや・・・」が正しいことになります。 現代仮名遣いで「づ」が「ず」に変わるので 「し[ず]けさや・・・」になります。 「しず[か]さや 岩にしみ入蝉の声」は誤記ということになります。 ちなみに、旺文社古語辞典には「しづかし」では記載がありません。 つまり、昔は「しづけ し 」は使われていたが 「しづか し 」という言葉が使われていなかったことになります。 あなたの持っている古語辞典で調べてみてください。 A ベストアンサー 「物書き」のひとりです。 まず、重要なことですが、「関・係・拘」のすべてが常用漢字ではありますが、その音訓表に「かか わる 」がないことです。 常用漢字は、「こうしなくてはいけない」といった性格のもではありませんが、一応、すべての文章を書き表す場合の指針ではあります。 音訓表に無いものの代表的なもの よく使われるもの として「全 すべ て」「画 えが く」「〇〇に依 よ れば/拠 よ れば」などが思いつきます。 本件の「関・係・拘」に関して言えば、「係」に「かか」の読みが認められているのみです。 それも「かかわる」でなく「かかる」です。 「人命に係 かか る問題」「係 かか り結び」など。 前者は、「人命にかかわる問題」のように表記されることもありますが、この場合 常用漢字の基準では 「係わる」でなく「かかわる」です。 結論としては、「それにもかかわらず」などにおける「かかわらず」は仮名書きが無難でしょう。 漢字の場合は「拘わらず」が正しいといえます。 ただし、パソコンでは「関わらず」と変換されることが多いようですネ。 漢字の場合、「関係」という言葉があるように、「関わる」と「係わる」の用法はほとんど区別がつきません。 一般的に言えることは、「関わる」「係わる」は肯定的にも否定的 「関わらない」「係わらない」 にも使いますが、「拘わらず」は、肯定的に用いられる例が少ない、ということです。 ただし、肯定的な「拘わる」が誤りだと言っているのではありません。 念のため。 「物書き」のひとりです。 まず、重要なことですが、「関・係・拘」のすべてが常用漢字ではありますが、その音訓表に「かか わる 」がないことです。 常用漢字は、「こうしなくてはいけない」といった性格のもではありませんが、一応、すべての文章を書き表す場合の指針ではあります。 音訓表に無いものの代表的なもの よく使われるもの として「全 すべ て」「画 えが く」「〇〇に依 よ れば/拠 よ れば」などが思いつきます。 本件の「関・係・拘」に関して言えば、「係」に「かか」の読みが認められてい... A ベストアンサー ざっとですが、 小林一茶 めでたさも中くらいなりおらが春 名月を取ってくれろと泣く子かな 我と来て遊べや親のない雀 高浜虚子 春の浜大いなる輪が画いてある 流れ行く大根の葉の早さかな 蓑虫の父よと鳴きて母もなし 種田山頭火 分け入っても分け入っても青い山 もりもり盛り上がる雲へ歩む 炎天のレールまっすぐ うしろすがたのしぐれてゆくか しぐるるやしぐるる山へ歩み入る 正岡子規 もののふの河豚にくはるる悲しさよ いくたびも雪の深さを尋ねけり 鶏頭の十四五本もありぬべし 痰一斗 糸瓜の水も 間にあわず 松尾芭蕉 松島や ああ松島や 松島や 秋深き隣は何をする人ぞ 旅に病で夢は枯野をかけ廻る 山路来て何やらゆかしすみれ草 閑さや岩にしみ入る蝉の声 五月雨をあつめて早し最上川 与謝蕪村 春の海ひねもすのたりのたりかな 菜の花や月は東に日は西に あたりでしょうか(虚子や山頭火は好きな人でないとちょっと馴染みがないかもしれません)。 ざっとですが、 小林一茶 めでたさも中くらいなりおらが春 名月を取ってくれろと泣く子かな 我と来て遊べや親のない雀 高浜虚子 春の浜大いなる輪が画いてある 流れ行く大根の葉の早さかな 蓑虫の父よと鳴きて母もなし 種田山頭火 分け入っても分け入っても青い山 もりもり盛り上がる雲へ歩む 炎天のレールまっすぐ うしろすがたのしぐれてゆくか しぐるるやしぐるる山へ歩み入る 正岡子規 もののふの河豚にくはるる悲しさよ いくたびも雪の深さを尋ねけり 鶏頭の... A ベストアンサー めどはやまと言葉ではないでしょうか。 もしそうなら漢字は当て字であり、どちらが正しいというものでもなく、世間で一般的にどう使い分けされているかということに過ぎないと思います。 広辞苑ではめど(目処)もくと(目途)と分けて記載されているだけで説明がなく 不親切です。 朝日新聞社の漢字用語辞典では、めど(目処、目途)とあり、私のPCでも、めどで両方が転換できます。 解決のめどがつくとか、目標達成のめどが立ったなどと使われるので、 ものごとがその完成、実現にちかずいたということを意味し、目標とは若干ニュアンスが異なると思います。 目標は高くとは言いますが、目途(目処)は高くとはいいませんね(この部分は蛇足です).

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(閑さや岩にしみ入蝉の声)「閑かさや」?、「閑けさや」?

静か さや 岩 に しみ入る 蝉 の 声 意味

この作品の上五についてお訊ねします。 ネットで見ると「閑かさや」と「閑けさや」の両派があります。 次の何れか一項目以上にお答え下さいませ。 1高校以下の教科書では、どう表記され、どう音読されていますか。 それは教員個人の裁量ですか。 それとも何かしらの公式な見解に基づいているのですか。 2 現代では「しずかさや」と音読するものだとの説は誰の、どんな考証に基づいていますか。 3 現代では「しずけさや」と音読するものだとの説は誰の、どんな考証に基づいていますか。 4 他者の考証を俟つまでもなく何がしかの根拠を背景にして、どう音読するべきか自説をお持ちの方は居られますか。 単に書籍に振り仮名がしてあるとの主張は困ります。 そう仮名を振る根拠が知りたいです。 よろしくお願いします。 以下の文献で、「しづかなり」「しづかさ」、および「しづけし」「しづけさ」の例を拾ってみました。 「しづか」系は、以下に示す(数字はページ・行)24例の所在が確認できましたが、「しづけし」系は1例もありませんでした。 ここからどうお考えになるかは、質問者様にお任せするとして、私はデータを提供するだけで失礼いたします。 なお以下に挙げる各例はまったく吟味しておりません。 芭蕉以外の人物の使用例も含まれています。 同じ句が重複していることもあります。 いちいち例文を挙げればよいのでしょうが、さすがに面倒なのでやめました。 あしからずご了承ください。 日本古典文学大系45巻『芭蕉句集』 46・8 102・11 173・8 348・5 374・4 406・3 429・2 457・2 497・2 513・5 日本古典文学大系46巻『芭蕉文集』 76・14 83・3 87・3 145・2 147・15 156・13 174・1 179・15 182・11 184・8 186・7 189・2 213・15 419・11 この回答への補足 何の疑問もありませんが手間暇の掛かったお答に対して、あまり素っ気無いお礼はできない気がしますので疑問の生じた背景を記します。 急がば回れで「静かさ」と「静けさ」から始めます。 1 「静かさ」と「静けさ」は似て非なる単語で、私の感覚では、ア)とウ)は自然だが、イ)は不自然である。 ア)A車とB車、どちらが静かだろう、「静かさ」を比べてみよう。 イ)A車とB車、どちらが静かだろう、「静けさ」を比べてみよう。 ウ)C基地とD基地、最近どちらが静かになっただろう、「静かさ」を比べてみよう。 つまり、 「静かさ」は静かな状態の度合いであって幅があり騒々しいものにも適用できる場合がある。 「静けさ」は極めて静かな状態の度合いであって幅が狭く静かでないものには適用できない。 2 翻って芭蕉の時代の「閑かさ」と「閑けさ」に差異はなかったのか。 現代人の私の感覚では、エ)とカ)は自然だが、オ)は不自然である(エは異論があるかも)。 エ)縁日のE寺と縁日のF寺、どちらが閑かだろう、「閑かさ」を比べてみよう。 オ)縁日のE寺と縁日のF寺、どちらが閑かだろう、「閑けさ」を比べてみよう。 カ)雪の日の深夜と雪の日の明け方、どちらが閑かだろう、「閑けさ」を比べてみよう。 つまり、 「閑かさ」は閑寂な状態の度合いであって幅があり、全く閑寂な状態から閑寂でない状態まで適用できる場合がある。 「閑けさ」は極めて閑寂な状態の度合いであって幅が狭く閑寂でないものには適用できない。 こういう事情がなかったといえるのか。 32がはっきりしないと判らないが、芭蕉の感動は立石寺境内の絶対の閑寂にあるのだから「閑けさや」ではないのか。 4芭蕉は「入」と書いて「いる」と読ませている。 「閑さや」と書いて「しづけさや」と読ませる位のことはしなかったか。 以上が疑問の発端でした。 詳細な至れり尽くせりのお膳立てには頭が下がります。 短兵急に決め付けてよいのか否か判りませんが、お蔭様で受け売りでなく自分なりの現時点での結論をもてました。 それぞれ参考になりましたが、今回の質問に最も直結すると思われる用例についてのみ触れておきます。 日本古典文学大系46巻『芭蕉文集』、P419・11に「しづかさやゑかゝる壁のきりぎりす」があります。 これは「閑さや岩にしみ入蝉の声」と句想(というのか、感動というのか)が全く同一です。 この作品から芭蕉はこの種の閑寂から受ける感動を「しづかさや」と表現していた事が判ります。 よって「閑さや」は「しづかさや」と仮名を振り「しずかさや」と音読されるべきだと判断しました。 たった一例から結論付けて良いものやら心配です。 が、同一人物の元禄4年と元禄2-4年の作ですから、この件に限っては結論づけて良いのだと思います。 こんな結論をもちました。 素人の暇つぶしみたいな質問に正面から時間を掛けて下さって感謝しています。 実証とはこういうことだと教えられた気がします。 毎度のことで有り難とうございます。 またの機会にもよろしくお願いします。 この件は全く、その通りでした。 休日になれば回答してやろうという方があってはいけないので20日(日)24時までは締め切らないでおきます。 ご了承下さいませ。 >(閑さや岩にしみ入蝉の声)「閑かさや」? 、「閑けさや」? 念のために「井筒屋本」と「西村本(素龍清書本)」の二系統の影印本(原本の写真印刷本)を数種類確認したのですが、表記は全て「閑さや」でした。 また、かなを付してもありませんでした。 つまり、「閑かさや」と「閑けさや」のどちらにも取れると言うことです。 さらに、古典文学大系、古典文学全集、その他の文庫判等を調べると、「閑かさや」で判を押したように統一されていました。 これから考えると、「閑かさや」が定説化しているものと考えられます。 ただ、古い石碑などのは「閑けさや」の表記が見られました。 「閑かさや」の根拠についてはNo2の方がおっしゃっていますので、参考までに印刷物の現状について書きました。 この回答への補足 私の知る限り(といっても井戸の世界ですが)全て 表記は「閑さや」 仮名を振る場合は「(しづか)さや」 現代の仮名遣いでは「しずかさや」 です。 定説になっていることにも異論はありません。 「閑さや」と表記して「しづかさや」と発音していたと何故判るのですか。 「しづけさや」と読んでいた可能性はないのですか。 芭蕉の時代には「閑(しづ)かさ」という名詞はあったが「閑(しづ)けさ」という名詞はなかったことが判っているのですか。 仮に「閑(しづ)かさ」と「閑(しづ)けさ」の両方があったとすれば、立石寺の境内に立つ芭蕉が「閑(しづけ)さ」でなく「閑(しづか)さ」を選んだと何故いえるのですか。 両者の意味の異同を知る必要がありませんか。 わざわざ調べて下さって有り難うございました。 事情が許せばご返事を下さいませ。 芭蕉の句は、「閑さや岩にしみ入る蝉の声」です。 「岩」や「声」は旧字で書かれていますが、この表記は私の手元にある杉浦正一郎校注の『素龍清書本』であるということが底本であるということを疑っても、何の論証にもなりませんで。 で・・・冒頭の「閑さ」をどう読むかが、論点だと思います。 「しずかなり」という語をという形容動詞を調べたことがない人がいるようですが、古語辞典には「閑かなり・静かなり」の両方がきちんと載っています。 ただ、芭蕉(一茶ではありませんW)が言いたかったのは、#2さんが仰っているように「閑寂」ということではないでしょうか。 それを考えると、「しずけさ」ではなく、「しずかさ」という読みが正解のような気がします。 私が前述した岩波新書は昭和32年の初版であり、ある程度現在より信頼のおける時代です。 ルビが振ってあるという根拠は御免だということですが、私はその時代のルビは信頼したいと思います。 どうも、岩波文庫の信者の意見で申し訳ありません。 深い理解はできませんが記載のあることは承知しています。 ANo. 2のお礼には 「芭蕉の時代に形容動詞「閑か」が存在したからといって」とあります。 古語辞典に形容動詞「しづか(閑か)」があることを知らない人間には書けない表現です。 それを考えると、「しずけさ」ではなく、「しずかさ」という読みが正解のような気がします。 「閑寂」を詠んだことに異論はありません。 「閑寂」を詠むと、「閑さや」と表記して「しづかさや」と発音していたと何故判るのですか。 「しづけさや」と読んでいた可能性はないのですか。 芭蕉の時代には「閑(しづ)かさ」という名詞はあったが「閑(しづ)けさ」という名詞はなかったことが判っているのですか。 仮に「閑(しづ)かさ」と「閑(しづ)けさ」の両方があったとすれば、立石寺の境内に立つ芭蕉が「閑(しづけ)さ」でなく「閑(しづか)さ」を選んだと何故いえるのですか。 両者の意味の異同を知る必要がありませんか。 岩波とルビの件は私が関与する話題ではありません。 有り難うございました。 事情が許せばご返事を下さいませ。 ところで、漢字表記にすると「しづかなり」は「静かなり」又は「閑かなり」ですが、「しづけし」は「静けし」です(広辞苑、角川古語辞典他)。 芭蕉の句は「閑」ですから、形容動詞の「閑かさや」となります(芭蕉の境地から単に物音のしない「静か」でなく、「閑寂」であることは当然です)。 ちなみに権威ある解説書(萩原恭男校注の岩波文庫や高校生向け参考書等)は、振り仮名又は送り仮名で「しづかさや」と読んでいます。 それらも根拠について触れているわけではないので、以上は4の自説ということになります。 この回答への補足 [「しづかさ」と読めば、形容動詞「しづかなり」の語幹+名詞化の接尾語「さ」ということになり、「しずけさ」と読めば、形容詞「しづけし」の語幹+同上「さ」ということになります。 ところで、漢字表記にすると「しづかなり」は「静かなり」又は「閑かなり」ですが、「しづけし」は「静けし」です(広辞苑、角川古語辞典他)。 芭蕉の句は「閑」ですから、] と [ちなみに権威ある解説書(萩原恭男校注の岩波文庫や高校生向け参考書等)は、振り仮名又は送り仮名で「しづかさや」と読んでいます。 それらも根拠について触れているわけではないので、以上は4の自説ということになります。 ] の部分には一字一句異論がありません。 疑問があるとすれば [形容動詞の「閑かさや」となります(芭蕉の境地から単に物音のしない「静か」でなく、「閑寂」であることは当然です)] の部分だけです。 芭蕉の時代に形容動詞「閑か」が存在したからといって名詞も「しづかさ」だけが存在し、「しづけさ」は存在しなかったと言えますか。 「しづけさ」も存在したとすれば当時の「しづかさ」と「しづけさ」の微妙な意味の異同を考えなくても差し支えありませんか。 芭蕉の時代に名詞「しづけさ」が有ったか否か、「しづかさ」と「しづけさ」の当時の意味上の異同についてご意見をおもちの方は居られませんか。 今日の感覚を当て嵌める気はありませんが因みに述べれば、「静かさ」と「静けさ」はかなりニュアンスが違います。 「しづかさ」と「しづけさ」も違った可能性はありませんか。 有り難うございます。 またの機会にもよろしくお願いします。 つまり、古語を調べれば正解が見つかります。 私の持っている旺文社古語辞典によると、 古語では形容詞の「し[づ]けし」です。 ですから「し[づ]けさや・・・」が正しいことになります。 現代仮名遣いで「づ」が「ず」に変わるので 「し[ず]けさや・・・」になります。 「しず[か]さや 岩にしみ入蝉の声」は誤記ということになります。 ちなみに、旺文社古語辞典には「しづかし」では記載がありません。 つまり、昔は「しづけ し 」は使われていたが 「しづか し 」という言葉が使われていなかったことになります。 あなたの持っている古語辞典で調べてみてください。 A ベストアンサー 「物書き」のひとりです。 まず、重要なことですが、「関・係・拘」のすべてが常用漢字ではありますが、その音訓表に「かか わる 」がないことです。 常用漢字は、「こうしなくてはいけない」といった性格のもではありませんが、一応、すべての文章を書き表す場合の指針ではあります。 音訓表に無いものの代表的なもの よく使われるもの として「全 すべ て」「画 えが く」「〇〇に依 よ れば/拠 よ れば」などが思いつきます。 本件の「関・係・拘」に関して言えば、「係」に「かか」の読みが認められているのみです。 それも「かかわる」でなく「かかる」です。 「人命に係 かか る問題」「係 かか り結び」など。 前者は、「人命にかかわる問題」のように表記されることもありますが、この場合 常用漢字の基準では 「係わる」でなく「かかわる」です。 結論としては、「それにもかかわらず」などにおける「かかわらず」は仮名書きが無難でしょう。 漢字の場合は「拘わらず」が正しいといえます。 ただし、パソコンでは「関わらず」と変換されることが多いようですネ。 漢字の場合、「関係」という言葉があるように、「関わる」と「係わる」の用法はほとんど区別がつきません。 一般的に言えることは、「関わる」「係わる」は肯定的にも否定的 「関わらない」「係わらない」 にも使いますが、「拘わらず」は、肯定的に用いられる例が少ない、ということです。 ただし、肯定的な「拘わる」が誤りだと言っているのではありません。 念のため。 「物書き」のひとりです。 まず、重要なことですが、「関・係・拘」のすべてが常用漢字ではありますが、その音訓表に「かか わる 」がないことです。 常用漢字は、「こうしなくてはいけない」といった性格のもではありませんが、一応、すべての文章を書き表す場合の指針ではあります。 音訓表に無いものの代表的なもの よく使われるもの として「全 すべ て」「画 えが く」「〇〇に依 よ れば/拠 よ れば」などが思いつきます。 本件の「関・係・拘」に関して言えば、「係」に「かか」の読みが認められてい... A ベストアンサー ざっとですが、 小林一茶 めでたさも中くらいなりおらが春 名月を取ってくれろと泣く子かな 我と来て遊べや親のない雀 高浜虚子 春の浜大いなる輪が画いてある 流れ行く大根の葉の早さかな 蓑虫の父よと鳴きて母もなし 種田山頭火 分け入っても分け入っても青い山 もりもり盛り上がる雲へ歩む 炎天のレールまっすぐ うしろすがたのしぐれてゆくか しぐるるやしぐるる山へ歩み入る 正岡子規 もののふの河豚にくはるる悲しさよ いくたびも雪の深さを尋ねけり 鶏頭の十四五本もありぬべし 痰一斗 糸瓜の水も 間にあわず 松尾芭蕉 松島や ああ松島や 松島や 秋深き隣は何をする人ぞ 旅に病で夢は枯野をかけ廻る 山路来て何やらゆかしすみれ草 閑さや岩にしみ入る蝉の声 五月雨をあつめて早し最上川 与謝蕪村 春の海ひねもすのたりのたりかな 菜の花や月は東に日は西に あたりでしょうか(虚子や山頭火は好きな人でないとちょっと馴染みがないかもしれません)。 ざっとですが、 小林一茶 めでたさも中くらいなりおらが春 名月を取ってくれろと泣く子かな 我と来て遊べや親のない雀 高浜虚子 春の浜大いなる輪が画いてある 流れ行く大根の葉の早さかな 蓑虫の父よと鳴きて母もなし 種田山頭火 分け入っても分け入っても青い山 もりもり盛り上がる雲へ歩む 炎天のレールまっすぐ うしろすがたのしぐれてゆくか しぐるるやしぐるる山へ歩み入る 正岡子規 もののふの河豚にくはるる悲しさよ いくたびも雪の深さを尋ねけり 鶏頭の... A ベストアンサー めどはやまと言葉ではないでしょうか。 もしそうなら漢字は当て字であり、どちらが正しいというものでもなく、世間で一般的にどう使い分けされているかということに過ぎないと思います。 広辞苑ではめど(目処)もくと(目途)と分けて記載されているだけで説明がなく 不親切です。 朝日新聞社の漢字用語辞典では、めど(目処、目途)とあり、私のPCでも、めどで両方が転換できます。 解決のめどがつくとか、目標達成のめどが立ったなどと使われるので、 ものごとがその完成、実現にちかずいたということを意味し、目標とは若干ニュアンスが異なると思います。 目標は高くとは言いますが、目途(目処)は高くとはいいませんね(この部分は蛇足です).

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「閑さや~」松尾芭蕉の俳句で知られる山寺とセミの声論争

静か さや 岩 に しみ入る 蝉 の 声 意味

この作品の上五についてお訊ねします。 ネットで見ると「閑かさや」と「閑けさや」の両派があります。 次の何れか一項目以上にお答え下さいませ。 1高校以下の教科書では、どう表記され、どう音読されていますか。 それは教員個人の裁量ですか。 それとも何かしらの公式な見解に基づいているのですか。 2 現代では「しずかさや」と音読するものだとの説は誰の、どんな考証に基づいていますか。 3 現代では「しずけさや」と音読するものだとの説は誰の、どんな考証に基づいていますか。 4 他者の考証を俟つまでもなく何がしかの根拠を背景にして、どう音読するべきか自説をお持ちの方は居られますか。 単に書籍に振り仮名がしてあるとの主張は困ります。 そう仮名を振る根拠が知りたいです。 よろしくお願いします。 以下の文献で、「しづかなり」「しづかさ」、および「しづけし」「しづけさ」の例を拾ってみました。 「しづか」系は、以下に示す(数字はページ・行)24例の所在が確認できましたが、「しづけし」系は1例もありませんでした。 ここからどうお考えになるかは、質問者様にお任せするとして、私はデータを提供するだけで失礼いたします。 なお以下に挙げる各例はまったく吟味しておりません。 芭蕉以外の人物の使用例も含まれています。 同じ句が重複していることもあります。 いちいち例文を挙げればよいのでしょうが、さすがに面倒なのでやめました。 あしからずご了承ください。 日本古典文学大系45巻『芭蕉句集』 46・8 102・11 173・8 348・5 374・4 406・3 429・2 457・2 497・2 513・5 日本古典文学大系46巻『芭蕉文集』 76・14 83・3 87・3 145・2 147・15 156・13 174・1 179・15 182・11 184・8 186・7 189・2 213・15 419・11 この回答への補足 何の疑問もありませんが手間暇の掛かったお答に対して、あまり素っ気無いお礼はできない気がしますので疑問の生じた背景を記します。 急がば回れで「静かさ」と「静けさ」から始めます。 1 「静かさ」と「静けさ」は似て非なる単語で、私の感覚では、ア)とウ)は自然だが、イ)は不自然である。 ア)A車とB車、どちらが静かだろう、「静かさ」を比べてみよう。 イ)A車とB車、どちらが静かだろう、「静けさ」を比べてみよう。 ウ)C基地とD基地、最近どちらが静かになっただろう、「静かさ」を比べてみよう。 つまり、 「静かさ」は静かな状態の度合いであって幅があり騒々しいものにも適用できる場合がある。 「静けさ」は極めて静かな状態の度合いであって幅が狭く静かでないものには適用できない。 2 翻って芭蕉の時代の「閑かさ」と「閑けさ」に差異はなかったのか。 現代人の私の感覚では、エ)とカ)は自然だが、オ)は不自然である(エは異論があるかも)。 エ)縁日のE寺と縁日のF寺、どちらが閑かだろう、「閑かさ」を比べてみよう。 オ)縁日のE寺と縁日のF寺、どちらが閑かだろう、「閑けさ」を比べてみよう。 カ)雪の日の深夜と雪の日の明け方、どちらが閑かだろう、「閑けさ」を比べてみよう。 つまり、 「閑かさ」は閑寂な状態の度合いであって幅があり、全く閑寂な状態から閑寂でない状態まで適用できる場合がある。 「閑けさ」は極めて閑寂な状態の度合いであって幅が狭く閑寂でないものには適用できない。 こういう事情がなかったといえるのか。 32がはっきりしないと判らないが、芭蕉の感動は立石寺境内の絶対の閑寂にあるのだから「閑けさや」ではないのか。 4芭蕉は「入」と書いて「いる」と読ませている。 「閑さや」と書いて「しづけさや」と読ませる位のことはしなかったか。 以上が疑問の発端でした。 詳細な至れり尽くせりのお膳立てには頭が下がります。 短兵急に決め付けてよいのか否か判りませんが、お蔭様で受け売りでなく自分なりの現時点での結論をもてました。 それぞれ参考になりましたが、今回の質問に最も直結すると思われる用例についてのみ触れておきます。 日本古典文学大系46巻『芭蕉文集』、P419・11に「しづかさやゑかゝる壁のきりぎりす」があります。 これは「閑さや岩にしみ入蝉の声」と句想(というのか、感動というのか)が全く同一です。 この作品から芭蕉はこの種の閑寂から受ける感動を「しづかさや」と表現していた事が判ります。 よって「閑さや」は「しづかさや」と仮名を振り「しずかさや」と音読されるべきだと判断しました。 たった一例から結論付けて良いものやら心配です。 が、同一人物の元禄4年と元禄2-4年の作ですから、この件に限っては結論づけて良いのだと思います。 こんな結論をもちました。 素人の暇つぶしみたいな質問に正面から時間を掛けて下さって感謝しています。 実証とはこういうことだと教えられた気がします。 毎度のことで有り難とうございます。 またの機会にもよろしくお願いします。 この件は全く、その通りでした。 休日になれば回答してやろうという方があってはいけないので20日(日)24時までは締め切らないでおきます。 ご了承下さいませ。 >(閑さや岩にしみ入蝉の声)「閑かさや」? 、「閑けさや」? 念のために「井筒屋本」と「西村本(素龍清書本)」の二系統の影印本(原本の写真印刷本)を数種類確認したのですが、表記は全て「閑さや」でした。 また、かなを付してもありませんでした。 つまり、「閑かさや」と「閑けさや」のどちらにも取れると言うことです。 さらに、古典文学大系、古典文学全集、その他の文庫判等を調べると、「閑かさや」で判を押したように統一されていました。 これから考えると、「閑かさや」が定説化しているものと考えられます。 ただ、古い石碑などのは「閑けさや」の表記が見られました。 「閑かさや」の根拠についてはNo2の方がおっしゃっていますので、参考までに印刷物の現状について書きました。 この回答への補足 私の知る限り(といっても井戸の世界ですが)全て 表記は「閑さや」 仮名を振る場合は「(しづか)さや」 現代の仮名遣いでは「しずかさや」 です。 定説になっていることにも異論はありません。 「閑さや」と表記して「しづかさや」と発音していたと何故判るのですか。 「しづけさや」と読んでいた可能性はないのですか。 芭蕉の時代には「閑(しづ)かさ」という名詞はあったが「閑(しづ)けさ」という名詞はなかったことが判っているのですか。 仮に「閑(しづ)かさ」と「閑(しづ)けさ」の両方があったとすれば、立石寺の境内に立つ芭蕉が「閑(しづけ)さ」でなく「閑(しづか)さ」を選んだと何故いえるのですか。 両者の意味の異同を知る必要がありませんか。 わざわざ調べて下さって有り難うございました。 事情が許せばご返事を下さいませ。 芭蕉の句は、「閑さや岩にしみ入る蝉の声」です。 「岩」や「声」は旧字で書かれていますが、この表記は私の手元にある杉浦正一郎校注の『素龍清書本』であるということが底本であるということを疑っても、何の論証にもなりませんで。 で・・・冒頭の「閑さ」をどう読むかが、論点だと思います。 「しずかなり」という語をという形容動詞を調べたことがない人がいるようですが、古語辞典には「閑かなり・静かなり」の両方がきちんと載っています。 ただ、芭蕉(一茶ではありませんW)が言いたかったのは、#2さんが仰っているように「閑寂」ということではないでしょうか。 それを考えると、「しずけさ」ではなく、「しずかさ」という読みが正解のような気がします。 私が前述した岩波新書は昭和32年の初版であり、ある程度現在より信頼のおける時代です。 ルビが振ってあるという根拠は御免だということですが、私はその時代のルビは信頼したいと思います。 どうも、岩波文庫の信者の意見で申し訳ありません。 深い理解はできませんが記載のあることは承知しています。 ANo. 2のお礼には 「芭蕉の時代に形容動詞「閑か」が存在したからといって」とあります。 古語辞典に形容動詞「しづか(閑か)」があることを知らない人間には書けない表現です。 それを考えると、「しずけさ」ではなく、「しずかさ」という読みが正解のような気がします。 「閑寂」を詠んだことに異論はありません。 「閑寂」を詠むと、「閑さや」と表記して「しづかさや」と発音していたと何故判るのですか。 「しづけさや」と読んでいた可能性はないのですか。 芭蕉の時代には「閑(しづ)かさ」という名詞はあったが「閑(しづ)けさ」という名詞はなかったことが判っているのですか。 仮に「閑(しづ)かさ」と「閑(しづ)けさ」の両方があったとすれば、立石寺の境内に立つ芭蕉が「閑(しづけ)さ」でなく「閑(しづか)さ」を選んだと何故いえるのですか。 両者の意味の異同を知る必要がありませんか。 岩波とルビの件は私が関与する話題ではありません。 有り難うございました。 事情が許せばご返事を下さいませ。 ところで、漢字表記にすると「しづかなり」は「静かなり」又は「閑かなり」ですが、「しづけし」は「静けし」です(広辞苑、角川古語辞典他)。 芭蕉の句は「閑」ですから、形容動詞の「閑かさや」となります(芭蕉の境地から単に物音のしない「静か」でなく、「閑寂」であることは当然です)。 ちなみに権威ある解説書(萩原恭男校注の岩波文庫や高校生向け参考書等)は、振り仮名又は送り仮名で「しづかさや」と読んでいます。 それらも根拠について触れているわけではないので、以上は4の自説ということになります。 この回答への補足 [「しづかさ」と読めば、形容動詞「しづかなり」の語幹+名詞化の接尾語「さ」ということになり、「しずけさ」と読めば、形容詞「しづけし」の語幹+同上「さ」ということになります。 ところで、漢字表記にすると「しづかなり」は「静かなり」又は「閑かなり」ですが、「しづけし」は「静けし」です(広辞苑、角川古語辞典他)。 芭蕉の句は「閑」ですから、] と [ちなみに権威ある解説書(萩原恭男校注の岩波文庫や高校生向け参考書等)は、振り仮名又は送り仮名で「しづかさや」と読んでいます。 それらも根拠について触れているわけではないので、以上は4の自説ということになります。 ] の部分には一字一句異論がありません。 疑問があるとすれば [形容動詞の「閑かさや」となります(芭蕉の境地から単に物音のしない「静か」でなく、「閑寂」であることは当然です)] の部分だけです。 芭蕉の時代に形容動詞「閑か」が存在したからといって名詞も「しづかさ」だけが存在し、「しづけさ」は存在しなかったと言えますか。 「しづけさ」も存在したとすれば当時の「しづかさ」と「しづけさ」の微妙な意味の異同を考えなくても差し支えありませんか。 芭蕉の時代に名詞「しづけさ」が有ったか否か、「しづかさ」と「しづけさ」の当時の意味上の異同についてご意見をおもちの方は居られませんか。 今日の感覚を当て嵌める気はありませんが因みに述べれば、「静かさ」と「静けさ」はかなりニュアンスが違います。 「しづかさ」と「しづけさ」も違った可能性はありませんか。 有り難うございます。 またの機会にもよろしくお願いします。 つまり、古語を調べれば正解が見つかります。 私の持っている旺文社古語辞典によると、 古語では形容詞の「し[づ]けし」です。 ですから「し[づ]けさや・・・」が正しいことになります。 現代仮名遣いで「づ」が「ず」に変わるので 「し[ず]けさや・・・」になります。 「しず[か]さや 岩にしみ入蝉の声」は誤記ということになります。 ちなみに、旺文社古語辞典には「しづかし」では記載がありません。 つまり、昔は「しづけ し 」は使われていたが 「しづか し 」という言葉が使われていなかったことになります。 あなたの持っている古語辞典で調べてみてください。 A ベストアンサー 「物書き」のひとりです。 まず、重要なことですが、「関・係・拘」のすべてが常用漢字ではありますが、その音訓表に「かか わる 」がないことです。 常用漢字は、「こうしなくてはいけない」といった性格のもではありませんが、一応、すべての文章を書き表す場合の指針ではあります。 音訓表に無いものの代表的なもの よく使われるもの として「全 すべ て」「画 えが く」「〇〇に依 よ れば/拠 よ れば」などが思いつきます。 本件の「関・係・拘」に関して言えば、「係」に「かか」の読みが認められているのみです。 それも「かかわる」でなく「かかる」です。 「人命に係 かか る問題」「係 かか り結び」など。 前者は、「人命にかかわる問題」のように表記されることもありますが、この場合 常用漢字の基準では 「係わる」でなく「かかわる」です。 結論としては、「それにもかかわらず」などにおける「かかわらず」は仮名書きが無難でしょう。 漢字の場合は「拘わらず」が正しいといえます。 ただし、パソコンでは「関わらず」と変換されることが多いようですネ。 漢字の場合、「関係」という言葉があるように、「関わる」と「係わる」の用法はほとんど区別がつきません。 一般的に言えることは、「関わる」「係わる」は肯定的にも否定的 「関わらない」「係わらない」 にも使いますが、「拘わらず」は、肯定的に用いられる例が少ない、ということです。 ただし、肯定的な「拘わる」が誤りだと言っているのではありません。 念のため。 「物書き」のひとりです。 まず、重要なことですが、「関・係・拘」のすべてが常用漢字ではありますが、その音訓表に「かか わる 」がないことです。 常用漢字は、「こうしなくてはいけない」といった性格のもではありませんが、一応、すべての文章を書き表す場合の指針ではあります。 音訓表に無いものの代表的なもの よく使われるもの として「全 すべ て」「画 えが く」「〇〇に依 よ れば/拠 よ れば」などが思いつきます。 本件の「関・係・拘」に関して言えば、「係」に「かか」の読みが認められてい... A ベストアンサー ざっとですが、 小林一茶 めでたさも中くらいなりおらが春 名月を取ってくれろと泣く子かな 我と来て遊べや親のない雀 高浜虚子 春の浜大いなる輪が画いてある 流れ行く大根の葉の早さかな 蓑虫の父よと鳴きて母もなし 種田山頭火 分け入っても分け入っても青い山 もりもり盛り上がる雲へ歩む 炎天のレールまっすぐ うしろすがたのしぐれてゆくか しぐるるやしぐるる山へ歩み入る 正岡子規 もののふの河豚にくはるる悲しさよ いくたびも雪の深さを尋ねけり 鶏頭の十四五本もありぬべし 痰一斗 糸瓜の水も 間にあわず 松尾芭蕉 松島や ああ松島や 松島や 秋深き隣は何をする人ぞ 旅に病で夢は枯野をかけ廻る 山路来て何やらゆかしすみれ草 閑さや岩にしみ入る蝉の声 五月雨をあつめて早し最上川 与謝蕪村 春の海ひねもすのたりのたりかな 菜の花や月は東に日は西に あたりでしょうか(虚子や山頭火は好きな人でないとちょっと馴染みがないかもしれません)。 ざっとですが、 小林一茶 めでたさも中くらいなりおらが春 名月を取ってくれろと泣く子かな 我と来て遊べや親のない雀 高浜虚子 春の浜大いなる輪が画いてある 流れ行く大根の葉の早さかな 蓑虫の父よと鳴きて母もなし 種田山頭火 分け入っても分け入っても青い山 もりもり盛り上がる雲へ歩む 炎天のレールまっすぐ うしろすがたのしぐれてゆくか しぐるるやしぐるる山へ歩み入る 正岡子規 もののふの河豚にくはるる悲しさよ いくたびも雪の深さを尋ねけり 鶏頭の... A ベストアンサー めどはやまと言葉ではないでしょうか。 もしそうなら漢字は当て字であり、どちらが正しいというものでもなく、世間で一般的にどう使い分けされているかということに過ぎないと思います。 広辞苑ではめど(目処)もくと(目途)と分けて記載されているだけで説明がなく 不親切です。 朝日新聞社の漢字用語辞典では、めど(目処、目途)とあり、私のPCでも、めどで両方が転換できます。 解決のめどがつくとか、目標達成のめどが立ったなどと使われるので、 ものごとがその完成、実現にちかずいたということを意味し、目標とは若干ニュアンスが異なると思います。 目標は高くとは言いますが、目途(目処)は高くとはいいませんね(この部分は蛇足です).

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