水田 あゆみ 北 新地。 『バチェラー・ジャパン』岩間恵さん結婚 水田あゆみさん&司会・坂東工も祝福「最高のフィナーレ」

バチェラー シーズン3 ネタバレ Fin ~友永構文を活用したバチェラー批評 最後までポンコツで逆にスッキリw~

水田 あゆみ 北 新地

江戸時代の南海トラフ巨大地震 [ ] 南海トラフ沿いがと考えられている巨大地震として、江戸時代には宝永地震のほか、7年()に連発したおよびが知られている。 また、宝永地震の4年前()にはを「宝永」へとするに至らしめたの一つであるが発生している。 9年()のもかつては宝永地震のように東海道・南海道に亘り 、震源域がほぼ宝永地震に匹敵すると考えられていた。 一方で、慶長地震の震源域が南海トラフ全域に亘るものならば、僅か100年余の超巨大地震の再来はエネルギーの蓄積の速さを意味し、今後襲うであろう将来の超巨大地震の見積もりにも関係する話である。 また、これを南海トラフ沿いの巨大地震とするには多くの疑問点があり、南海トラフ沿いの地震ではないとする見解も出されている。 仮に慶長地震が沿いが震源域ならば、地震動が弱い点、歪み蓄積時間の問題は氷解する。 また、については「宝永地震の後始末地震」だった可能性も考えられ、この宝永地震後の再来間隔147年は南海トラフ沿いの巨大地震としてはむしろ短い部類になるとの見解もある。 本地震について記され現在まで残されたは、に発生した安政地震に比して量・質とも遥かに及ばず、しかも安政地震後に当時の人々が過去を振り返って記述したものも少なくなく、地震当時に記録された史料は少ない。 地震 [ ] 地震動 [ ] 宝永四年十月四日の上刻(1707年10月28日14時前 )、、および諸国は激しい揺れに襲われた。 この地震の有感範囲は非常に広大で家屋潰倒の激震範囲は約200(約790 km)にも及び 、を除く日本国中、に亘って大揺れとなった(『地震類纂』 ,『外宮子良館日記』 など)。 は当日、晩秋でありながら快晴で一つで済むような暑い日であったという。 『万変記』(『弘列筆記』)には「朝より風少もふかず、一天晴渡りて雲見えず、其暑きこと極暑の如く、未ノ刻ばかり、東南の方おびただしく鳴て、大地ふるひいづ、其ゆりわたる事、天地も一ツに成かとおもはる、大地二三に割、水湧出、山崩、人家潰事、を見るが如し」とある。 震動時間は土佐国高知(現・)において「半時ばかり大ゆりありて、暫止る」(『万変記』)、土佐国の宇佐村(現・宇佐)では「未の上刻 より大地震 同時ノ中刻に静まる」(『今昔大変記』)など、30分から1時間も揺れが継続したような表現が多く見られるが、「又暫くしてゆり出し、やみてはゆる、幾度といふ限なし、凡一時の内六七度ゆり、やまりたる間も、に乗たるごとくにて、大地定らず」(『万変記』)といった記録もあり、これは直後の余震活動をも含めた時間を表しているとされるが、現代ほど厳密な時刻を求めない時代にあって感覚に頼る部分が大きく、あるいは大地震による恐怖感が誇張的な表現を生んだとする見方もある。 本震の有感であった継続時間として確からしい記録として高岡郡佐川村(現・甲 )において「行程に積らば二百歩を過ぐ可か やや久敷く震動す」(2分余、『宝永地震記』)、あるいは、において「地震動は道を七 八歩くくらいゆれつづいた」(約10分、『基煕公記』)といった記録がある。 他に「其間ヲ勘ルニ一時ヲ六ツニシテ、其一ツ程長クユリ」(約20分、『小林家記録』)、「茶四五ふくも給へ申間ゆり」(『大浜八幡宮文書』)、「時斗二三歩之間震り」(約24〜36分、『出火洪水大風地震』)、また「未一點より。 申前迄大地震。 」(約2時間、大坂『鸚鵡籠中記』)という甚だ長い震動時間の記録もある。 震源域 [ ] 激震域や津波襲来の領域が安政東海地震と安政南海地震を併せたものにほぼ相当することから、が沈み込む南海トラフ沿いで(の震源域も含む)およびが連鎖的にほぼ同時に起きたと仮定され 、中央防災会議が設置した「東南海、南海地震等に関する専門調査会」ではのモデルとされていた。 東海地震と南海地震が時間差で発生した二元地震と考えられたものの、からにおける地震の発生時刻の記録からは時間的に分離できないとされている。 また、単なる安政タイプの2地震の同時発生では津波の規模などが説明できないとされる。 1854年の安政東海地震とは異なり、震源域は奥までは達していなかったと推定されている。 一方での計算結果により九州におけるや津波湖の遺跡は震源域を沖よりさらに西側の沖まで延長しないと説明できないとする説も浮上し、震源域の長さは600kmよりさらに伸びて、700kmに達するとされる。 このような震源域が広大な は日本において以降の近代観測の中では知られていなかったが、(平成23年)に発生した()は超巨大地震のメカニズムに対し新たな知見を与えるものとなり 、また南海トラフにおいても過去に宝永地震と同等またはそれ以上と考えられる過去の複数の地震痕跡が発見された。 小山順二 2013 らは、本地震は南海トラフの海溝軸の方向に沿って複数のセグメントの断層破壊が進展したと推定し、陸側と海溝側の二重の震源域のセグメントに跨って断層破壊した東北地方太平洋沖地震とは発生過程が異なるとした。 南海トラフは平常時はを形成し、低角のプレートのであって強いプレート間の固着を示唆しており、このような従来「チリ型」と分類されてきた一重の震源域セグメント帯の沈み込み帯で発生した同タイプの巨大地震としては、1700年、1960年および2010年が挙げられている。 震害は民家よりもむしろ等の大型の構造物に顕著な被害が目立ったことから、がより卓越していたとの指摘もあり、さらに震源域は安政地震より沖合いに仮定され、東端を駿河湾から方面へ南下させることが提唱されている。 規模 [ ] 宝永地震の震度分布 の推定値には8. 4から9. 3まであるが、などの観測網がない時代にあってによる各地の記録に基づく推定や津波の規模による推定に頼らざるを得ないであり、かつ、マグニチュードの飽和が見られる巨大地震であるからその数値は不確定な要素を含む。 4に換算されている。 宇佐美龍夫 1970 はこの河角の規模と気象庁マグニチュードの関係を検討し、昭和地震より規模が大きいことから8. 4に近いであろうと推定したが、この当時はモーメントマグニチュードという概念は存在せず、1960年のチリ地震も M 8. 5とされていた。 その後、マグニチュードは8. 6 に変更され 1999 はその根拠を示していないが、安政東海地震 M 8. 4と安政南海地震 M 8. 4のエネルギーを足し合せたものと考えられている。 安藤 1975 は3個のを仮定したモデル、相田 1981 は羽鳥 1974-81 による推定津波波高から南海トラフ沿いに5個の断層を仮定し8. 7と推定しているが 、これも安政東海地震と安政南海地震を基に推定したものであり、その安政地震の断層パラメーターも・を基に推定したものであった。 また、安中 2003 も4つの断層を仮定したモデルを提唱し 、古村 2011 は安中のモデルを日向灘まで延長した断層モデルを提唱している。 9が見積もられている。 内閣府の「南海トラフの巨大地震モデル検討会」による「南海トラフ沿いの巨大地震による長周期地震動に関する報告」では、 Mw8. 87の断層モデルが想定されている。 石川有三()は、古文書の記録から推定した余震域の面積と震度6以上の地域の距離から、宝永地震の規模はそれぞれ M 9. 1、9. 3と算出したと、2011年の日本地震学会で発表した。 また、上記の相田 1981 の断層モデルではに達した津波を説明できず、村松 1969 の式は、宝永地震と比較し得る地震の震度分布のデータが不足していた時代のものであったため特に大規模な地震のマグニチュードは正確に見積もれないとされる。 被害 [ ] 以上と推定される地域は、より西の沿岸部から、、、、四国、東部の、まで及び、さらに、など内陸部、杵築地方など日本海側にも一部震度6と推定される地域が分布した。 、京都でも震度4- 5と推定されるが被害は比較的軽度であり、京都ではなどで堂が破損し(『松尾家累代日記』) 、のが落下 『大坂大地震津浪之事』 、江戸邸は土蔵の壁が破損した(『御日記』)。 奈良のでは東南院の塀が裏門より東側が残らず崩れ、東大寺領分の家が349軒の内18軒崩れた(『東大寺年中行事記』)。 震度4以上の領域は九州からに及び、の八戸(現・)においても有感であった。 さらに『中国地震歴史資料彙編』の記録には浙江帰安(現・)において、「地震、水涌」とある。 地震の揺れによる被害は、、沿い、および、紀伊半島で最も顕著であり、では建屋が残らず潰れ、も潰れた後津波で流失した。 、、、、袋井宿等は幕府への被害報告に「四日昼八つ時同五日朝六つ時両度大地震ニ而…(『楽只堂年録』)」等と記載されているため、翌朝の富士宮の地震との被害の区別が困難である。 家屋倒壊は駿河から土佐まで著しく、被害は出雲、、信濃など五畿七道に及ぶ。 東海道の被害状況は駿河以西で顕著であった。 地震8日後、幕府は目付2人を派遣して東海道筋の宿場町の被害状況を調査させた。 また災害復旧については、東海道筋のにあったの内、例えばから由比宿までの普請修復はが手伝いを命じられ、幕閣内で地震担当を任ぜられたのが真田家普請奉行本締役人に普請金の概算を内示して普請への取り組みを指示した。 工事など普請実務は代官手代の指示を受けた幕府指定の江戸の請負町人の担当であったが、村普請も許容された。 これらの宿場町の家作および道筋修復金の合計は14,931と80であった。 普請金の負担はすべて真田家であったが、被害を受けた村人らはこれを自覚せず幕府による御救いと見做したのが実態であった(『真田家文書』)。 土佐では『公儀差出』に潰家4866軒とあり、高知、須崎等各地で液状化が発生し、中村では家が三分の二倒壊し、宿毛では火災を生じたが、本地震では火災は少なかった。 地震後、各藩・領主らは城・屋敷・城下町・郷の被害を幕府に報告しており、『』には城の破損の報告が見られる。 城郭の被害状況 街道 石垣の孕み・崩れ 櫓・塀・門等の破損 、 、、、 、、、、、、、、 、、、、、、、 、、、、、 、、、、、 、 、、、、 、 、、、、 、 紀伊天守は東へ傾いたという(『氏収集文書』)。 地震後、各藩は城等の補修の許可を幕府に願い出ており、例えば信濃は11月9日(1707年12月2日)、伊予は11月26日(1707年12月19日)に、それぞれ石垣の修理を願い出通りに許可されている(『口上覚』 『大洲新谷藩政編年史』 )。 の奉行、の日記『』によれば、書院で夕飯の酒が一回りする頃、東北から鳴響いて震い出した。 次第に強くなり鎮まらないので庭へ飛降りると、揺れが倍となり歩くこともできないほど揺れたと云う。 さらに、名古屋城三の丸が火事になり、城下ではの塀の7-8割が崩れ、地面が裂け、泥が湧き出した様子が書かれている。 は櫓や門等が破損する程度であったが、大坂城下では・・伏見堀・・・北之新地・筋は建屋が残らず潰れた(『大坂地震の控』)。 では酒屋、醤油屋などで樽中のもの半分を失い、の堀の水が溢れて路上を浸し、石壁も崩壊した(『廣島市史』)。 本地震では各地で、山崩れが顕著であった。 上流では1億2000万m 3と推定される大規模なが発生し 、も白鳥山の山崩れのためを形成し3日後に決壊した。 では、の一角が大音響とともに崩壊したと云う(『隋観録』)。 室戸岬付近では佐喜浜川上流で加奈木崩れが発生した。 越知(現・)では舞ヶ鼻が崩壊しを堰き止め4日間湛水したため「標高61m以下の場所に家を建てるな」と警告する石碑が数ヵ所ある。 甲斐、駿河は翌朝の余震被害との区別困難。 地殻変動 [ ] 地震によるは南東上がりの傾動を示し、津呂、室津など付近は7- 8尺(約2. 1- 2. 4m『万変記』)、は約1. 6m 、では地盤が約1 - 2m隆起し 、「姥が懐」と呼ばれた大須賀の横須賀(現・)にあった入江の港は陸地となり使用不能となった。 また史料から室津湊において宝永地震前に比して52年後の9年(1759年)の潮位は5尺 1. 5m 低いことが判明している。 は15-20cm沈降、渥美半島の田原では5-6寸(15-18 cm)の沈降、紀伊ので5尺(約1. 5m)程度の沈降、東部では最大7尺(2m強)の沈降により約20km 2にわたって浸水し 、しばらく船で往来したという。 『谷陵記』の記録から宇佐(現・土佐市)、須崎、(現・中土佐町)、以布利(現・土佐清水市)など土佐湾岸西部で2-2. 5m程度と沈降が著しかったものと推定されている。 がすることによる体積歪によって地下水位が低下し伊勢、大坂、土佐、若松など各地で井戸が枯れ、またの出湯は145日間止まり、の、山地、、などといった各地のの出湯が止まるなど、異常が見られた。 このような南東上がりの地殻変動は宝永地震においては規模が大きいものの形式は安政東海・南海地震および昭和東南海・南海地震と同様であり、南海トラフにおいてユーラシアプレートが衝上する低角逆断層のであることを示唆している。 ただし、他の地震とは様相が異なる面もあり、昭和南海地震や安政南海地震で隆起したは、宝永地震では史料が乏しい面はあるものの『谷陵記』の以布利の海没記録、および『南路志』にある、直下の海中岩石に彫られた作の浪切不動が宝永大変以降見えなくなった記録などから沈降、あるいは隆起していないと推定される。 また、安政東海地震で隆起した駿河湾西岸の清水・は宝永地震では沈降し、付近は古地図の調査から変化していないと推定されている。 前震 [ ] 21年前の3年8月16日刻(五ツ半)(10月3日8-9時頃)、 - M 6. 5-7 は、宝永地震に先行して発生した内陸地震とされ、広義のの可能性があるとされる。 また、宝永地震の4年前の16年11月23日(1703年12月31日)には、関東で - M 8. 1-8. 2 が発生、富士山の噴火を呼び起こしている。 『鸚鵡籠中記』には、名古屋において前日の10月3日に発光現象と思われる記録、また、前震と思われる地震の記録が9月25、26、28日に見られる。 『宮地日記』では、高知において9月3日、13日に地震の記録がみられる。 余震 [ ] 宝永噴火口と宝永山 この本震の約16時間後の翌朝刻(6時頃)には付近を震源とする強い地震() M 7. 0 があり、江戸(『隆光僧正日記』)、富山(『吉川随筆』)および名古屋(『鸚鵡籠中記』)でも強く揺れ、の社領で残らず潰家、富士宮や東海道筋などで建造物の倒壊や死者の発生があった。 地震の49日後の(12月16日)にはの側面で大噴火()が起こり、江戸では数- 10数のが積もった。 この噴火によって富士山にはであるが出現した。 また、翌年の宝永5年 - 刻(1708年2月13日10-12時頃)には宝永地震の最大と見られる紀伊半島沖を震源とする地震があり、京都(『雑事日記』)、および名古屋(『鸚鵡籠中記』)でも強く揺れ、津波が発生し紀伊ではが浸水(『海南郷土史』)、伊勢では山田吹上町、一本木に及び、の堤防が破れた(『神宮文庫本』)。 土佐における余震で顕著な強震を記録したものは以下の通り。 宝永4年11月16日(1707年12月9日)、中刻(18時)、大地震に次いでの強震。 宝永4年11月26日(1707年12月19日)、朝の上刻(10時)また大いに地震す、巳時大地震16日に比べ又甚。 名古屋、京都でもゆれる。 宝永4年12月11日(1708年1月3日)、夜半大震。 宝永5年1月1日(1708年2月22日)、震甚。 宝永5年閏1月2日(1708年2月23日)、辰の上刻(8時)甚震、刻震その後大震。 名古屋でも地鳴り。 宝永5年閏1月27日(1708年3月19日)、辰刻地震。 大坂では10月4日以来の大震、名古屋、伊勢、鳥取など広い範囲で強い地震。 宝永5年2月25日(1708年4月15日)、夜(4時)の刻地震頗る大也。 名古屋、京都、大坂でもゆれる。 宝永5年8月18日(1708年10月1日)、甚震五度。 宝永5年12月1日(1709年1月11日)、夜大地震東南の空数度轟鳴。 名古屋でも地鳴り。 宝永6年3月11日(1709年4月20日)、卯刻(6時)、地震稍大。 宝永6年4月22日(1709年5月31日)、酉の下刻地震頗る大也、亥の刻(22時)又震、先の震より大也。 半年余り経た宝永5年3月頃でも毎日1-2あるいは5-6回の余震が続き、羽根(現・)では宝永5年8月・9月(1708年10月前後)でも少ない日は1-2回、多い日は6-7回の余震があった。 3、4年の間は時々地震有り、『三災録』には「辰巳両年(2、3年、1712年、1713年)も折々小震有り未だ治せず、午年(正徳4年、1714年)も同断、未年(正徳5年、1715年)に至りて治す」とあり、余震は8年後まで続き、元年(1716年)には一応収束した。 誘発地震 [ ] に影響を受け、域および余震域から離れた地域でも規模の大きなが発生している。 宝永地震の本震の24日後、宝永4年10月28日卯刻(1707年11月21日6時頃)、上徳地村(現在の山口県徳地)で局地的な地震(倒壊家屋289戸、死者3人『毛利十一代史』)。 宝永地震の本震の7年後の正徳4年3月15日戌亥刻(1714年4月28日21時頃)、。 津波 [ ] 波高 [ ] 本地震は津波による被害が主であり 、津波は、、から、にわたる海岸沿いに加えて、、、、および、まで入り込んだ。 では5- 7m、紀伊半島で5- 17m、で5- 9m、土佐で5- 26mと推定され、被害は特に沿いで甚大であった。 津波は、済州島、およびにも達し被害をもたらした記録も存在している。 の記録では、『湖州府志』の46年10月4日(1707年10月28日)の条項に「河水暴張。 」とある。 この津波の波源域は全長600kmにも達し、1952年の600km、1960年チリ津波の800km、1964年の700kmといった20世紀の世界の巨大津波に劣らない規模であった。 津波は土佐において半時(約1時間? )後の未の下刻(14時過ぎ)から翌日の寅の刻(4時頃)まで11回打ち寄せ、第3波が最も高かったとされる(『谷陵記』)。 その後も弱い津波は続き、戌刻(20時頃)に至り漸く鎮まった(『宝永大変記』)。 紀伊半島沿岸、土佐の室戸、種崎や須崎など多くの場所で引き波で始まり、紀伊の広(現・)や御坊(現・)では襲来する波はゆっくりであったが、引き波は激しく人家は取られ多く流失した(『安政見聞録附図』 『薗浄国寺過去帳』 )。 尾鷲賀田(現・)において、宝永津波は地震が鎮まってから飯を一鍋焚く時間があり、井戸水が枯れ、潮が雀島(約300m沖)まで引いた後襲来したと伝えられ、対し、安政津波は様相が全く異なり早く襲来したといい(『三重県南部災異誌』 『大地震津浪記録』 )、那智勝浦にもほぼ同様の言伝えがあった(『新田家過去帳』)。 津波の被害状況 地域 推定波高・遡上高 古文書の記録 1935-40 間城 1995 2007-15 羽鳥 1977-84 その他 現・ 五日、湊十分一小屋後迄小潮入候由『八戸藩日記』 銚子 現・ 晩七ツ時常之汐より三四尺程充高御座候而『清野与右衛門書状』 1-1. 2 白子 現・千葉県 未ノ中刻俄ニ、津浪高クナリ二三十間打掛引カヘシ、四度打掛ヶ次第ニツヨク打カケ二丁、計打上ヶ『一代記付リ津波ノ事』 1. 5m 現・ 海嘯あり『東葛飾郡誌』 1m程度 現・ 前川の塩田数十町歩は、海嘯に依って奪去せられた『前羽村誌』 前川2-3m 現・ 津浪揚ル、当嶋ニテハ多少入ル末吉村塩間ニ浪ヨホドアガル『八丈実記』 八丈島3m、 5-6m 下田 現・ 下田町江津浪打揚ヶ家財流失『下田町古来書上帳之写』 岡方4. 4m 5. 1m 5-6m 柿崎6. 7m 三保 現・静岡県 津浪上り家ノ前筋之家共打込ゑこハ札ノ辻下迄波上り『村中用事覚』 3. 0-3. 9m 5m 4-5m 相良 現・静岡県 相良、福岡、波津、壊地接続して一邑の如し。 百年前、海嘯三邑殊ひす。 西、八形山近きにあり民走って死を免る『蕉園渉筆』 4. 9 6-8? m 現・静岡県 御関所潰れ津浪来ること丈計り『関守富永某手記』 3. 0m 3. 0m 3m 3-5m 白須賀 現・静岡県湖西市 一軒も不残、汐見坂茶屋二間残『宝永地震記』 9. 0m 5-6m 現・ 現・ 高松村などはへいぜいの波打より五丈高く上り申候てほうべ底き所は少々打越申候、志州鳥羽は波の高八丈程上り申候由『金五郎日記歳代覚書』 鳥羽玉泉寺5. 8m 高松15m? 鳥羽24m? 熱田 現・愛知県 熱田海等、甚だ潮甚高く、進退不常、新屋川等迄潮来る『鸚鵡籠中記』 2-3m 川越 現・三重県 光輪寺も洪水で堂宇が流失した『川越町史』 2. 4m 志摩国府 現・三重県 殊に家ハ瀬田橋近所に候得ハ、家に帰り見れハ、家の床より壱尺五六寸潮入『井村家文書』 3. 5m 7-8m 伊勢東宮 現・三重県 津波は東新田まで入った『伝承』 8. 6m 贄浦 現・三重県南伊勢町 浜島ニて浪打きわにて汐高く三丈七尺ほと『西川家記録』 7-8m 8-11m 安楽寺 現・三重県 宮は流れ、寺は軒まで潮がついた『ふるさとの民話と資料』 7. 3m 尾鷲 現・三重県 海水が清四郎の後の段まで『宮崎嘉助の覚書』 九鬼6. 3m 尾鷲8-10m、 九鬼5-6m 賀田 現・三重県尾鷲市 浜通りは全部流失し、一一人が溺死『尾鷲市史』 10. 6m 8-9m 勝浦 現・ 浜の宮観音堂礎を離る、補陀洛寺海際へ流る『』 6-7m 古座 現・和歌山県 津呂の石垣三つ迄満水たるよし『地震洪浪の記』 5m 現・和歌山県串本町 錦江山の堂宇が全部流失の災難に逢い為に串本の旧記一切を流失してしまった『串本のあゆみ』 5-6m 17m 田辺 現・和歌山県 袋町長町も町半分浪入る其深さ三尺四五寸程なり『宝永四年、安政元年震災記』 3. 5m 6-7m 13m 広 現・和歌山県 西方石階の第三段目にまで到達『八幡神社言伝』 海岸11m、 八幡宮14. 3m 5-6m 現・ 泉州堺同日未刻地震、申刻海上高潮なり、常々より潮九尺程高し『元禄宝永珍話』 2. 5m 現・大阪府 安治川・木津川・道頓堀・長堀・立売掘・堀江川筋へ諸廻船一時ニ込来、木津西浜辺江大船込上ケ、道頓堀川筋日本橋ニて船止リ申侯『波速之震事』 2. 5-3m 3m 3. 6m 現・ 即刻高汐ニ而(中略)塩浜土手、此度又押流候由『楽只堂年録』 3m 3m 神崎 現・ 常ノ潮ヨリ高キコト五尺余『改訂邑久郡史』 3m 3m 現・ 大地震アリテ高潮襲来ス『備後福山藩編年史料』 1. 5m 1. 5m 三原 現・広島県 町裏塩浜東野村木原村新開之堤割多石垣所々損し申候『顕妙公済美録』 2m 2m 徳山 現・ 地震、高潮、山崩、岸崩あり『徳山略記』 1. 5m 1. 8m 牟岐 現・ 当郷民家十五、六宇、津浪の為流失す、然りと雖も社壇、水際を去る一丈三四尺『杉尾神社津浪記』 6m 6-7m 浅川 現・徳島県 大海ヨリ高サ三丈計ノ大汐指込『浅川観音堂・地蔵尊台石』 6-7m 9m 宍喰 現・徳島県海陽町 願行寺南の畑へ流れ上り、尤も寺地残り候へ共大に痛、座上へ汐二尺余も上り『宍喰浦舊記』 5-6m 5-6m 室戸室津 現・ 耳崎ヨリ打入ル潮ニ、湊ノ東水尻ト云所ノ家流ル『谷陵記』 6. 5m 7. 5m 5. 5m 6-7m 奈半利 現・高知県 浜ノ在家亡所、御殿辺ノ家流ル『谷陵記』 7-7. 5m 安芸 現・高知県 半亡所、潮ハ田町十丁程迄『谷陵記』 5. 6m 安芸7-7. 7m 7-8m 萩谷15. 6m 9m、 吾井郷13m 神田18m 5-6m 須崎付近 沖の舟より陸へ浪の上るを見積に高さ一町程も逆登と見え、又陸に居て入来る浪の高さを積るに雲へ与えたる様に思ハれさりとや『宝永地震記』 安和22. 7m 八幡宮9-9. 5m、 内陸20-26m 8. 1m 20-22m 現・高知県 亡所、潮ハ山迄、此浜ノ松林八幡賀茂ノ両社潮入ト云ヘドモ流レズ『谷陵記』 上川口7. 5-8. 5m 蜷川10-14m 加持17m 8. 6m 6. 4-13. m 宿毛 現・高知県 亡所、潮ハ和田ノ奥、或ハ牛ノ瀬川ヲ限ル『谷陵記』 5-6m 宿毛大島 現・高知県宿毛市 当浦ハイタカ神社の石垣踏み段三つ残る『大島庄屋家記』 9m 9. 8m 伊予 現・愛媛県 枡形辺新町元結木持筒町佐伯町辺夥敷汐床之上へ四五尺所ニより其余も汐上り『伊達家御歴代時記』 5m 5. 1m 現・ 大形浜ニ汐上ヶ申候『杵築町役所日記』 1. 5-2m 1. 5-2m 豊後佐伯 現・大分県 養福寺迄も汐差込、(中略)石壇二ツ計り残り申候『宝永四亥年高潮之記録』 城下3. 5-4m 米水津11. 5m 土々呂 現・ 土々呂市振、波にとられ、家跡海に成、深さ壱丈『日向雑記』 4-4. 5m 3m 現・ 酉刻高潮満ち諸所破損『長崎建立并諸記挙要』 3. 5m 2m 現・ 庄司浦人家十余流失『南種子町郷土誌』 7. 9m 5-6m 6m 被害 [ ] 東海道 [ ] のでは家数925軒の内、857軒が津波で流失し、55軒が半潰れとなった。 下田では元禄津波の被害も受けているが、この時は492軒の流失であった(『下田年中行事』)。 下田市の口碑に「七軒町」は昔津波の時に家が七軒残ったためそう呼ばれるようになったとあり、元禄12年(1699年)の『下田町水帳』にはこの町名は見えず、元禄津波より宝永津波の方が被害が大きいことから、これは宝永津波を指すと考えられている。 が太平洋とつながる今切は津波によって1里(約3. 9 km)もの大口を開け、遠州灘と湖とを隔てる半島は切り離され島となり、半島にあった・と共に流失し不通となり、浜名湖北岸を迂回するが大いに賑わったという。 その後、宿場町は移転を余儀なくされ、宝永5年正月(1708年)から工事が始まり、3月から4月に移転が完了した。 この結果、新居-舞阪間の渡船路は一里半(約5. 9 km)となった。 白須賀も残らず震潰れた後津波で流失したため、地震以後白須賀宿はを登った高台へ移転し、元の宿場町は元町と呼ばれるようになった(『白須賀町誌』 )。 紀伊半島 [ ] 『尾鷲組大庄屋文書』の記録ではで地震の1時間後に高さ1丈9尺(地上5. 7m、海面上8-10m)の津波が押し寄せ、1000人が流死した。 賀田湾(現・尾鷲市)では海水のによって、の奥に位置する賀田で最も波高が高くなり、浜通りの家屋は全て流失した(『亥ノ十月四日浪流家小物引分帳』 )。 賀田では1854年安政東海地震や、1944年東南海地震でも湾内で最も高い津波に襲われた。 浦々では錦浦(現・)から大泊(現・)まで家が悉く流失するなど特に酷く 、『居家日記』 には、紀州熊野浦53里(約210 km)、海辺108郷が川原(亡所)になったとある。 南部(現・)では、沖の鹿島の御山を5〜6重にもなる波が来る中に白く円い光を発して大小二つに割れ、大は東へ行き、小は南部に打寄せたが被害は無かったという(『重賢記』 )。 印南(現・)では、津波による犠牲者が300人にも及び、印定寺に所蔵される合同位牌には162人のが刻まれ、「山の如く凹凸として打寄せ、家財即時に流れ皆悉く漂溺す」と津波襲来の様子が記されている。 広村(現・広川町)では、津波で地形が一変して850軒の家屋が流失し犠牲者192人、(現・)では流失・損壊が563軒であり犠牲者41人、広・湯浅は一帯が海へと変じた。 大坂 [ ] では地震の約2時間後に津波が到達し、やの河口から市街地へ侵入した。 河口に碇泊されていた船が上流へ押し流されながら橋に衝突し橋の破壊はで顕著であり、家財道具を積み船で避難しようとした人々や橋に居た人々が投出され溺死した。 この津波による溺死者は7000人余(『波速之震事』)、あるいは合計の犠牲者12000人(『寳永度大坂大地震之記』)、地震潰家凡630軒余、竈数凡10620軒余、死人15620人(『月堂見聞集』)とする記録がある。 ただし、『摂陽奇観』ではの天満組において潰家993軒、死人540人と記録されており、大坂三郷全体ではその5倍程度とするのが妥当とする説もある。 また、被害報告数は調査時点で大きく変わり、幕府の被害報告書の写しと推定される尾張藩士の堀貞儀が記録した『朝林』には圧死者5,351人、溺死者16,371人とあり、少なくとも大坂における犠牲者は21,000人を下らないとされる。 土佐 [ ] 熊野神社震災碑 中土佐町久礼 土佐国のに面した種崎村 では波高7-8(23m)に達し 草木一本も残らず約700人が溺死した。 も指摘するように種崎は太平洋に面したで波高の増大には不利な地形であり、この『万変記』による波高は必ずしも種崎を指すのではなく、筆者沢田弘列が耳にした中で波高が土佐最大の津波であったとの見方もある。 当時種﨑に住居していた土佐藩士柏井貞明が少年時代の記憶を元に記した『柏井氏難行録』 には、家族連れで避難中にけた黒い津波に飲まれ母と妹を失いながらも命からがら逃げ延びた様子が生々しく描かれている。 地盤沈下した下周辺は浦戸湾から侵入した津波によって一帯が海となり、久万、泰泉寺、薊野、一宮、、、の山の根まで浸水した。 『谷陵記』には「堅固ニ設タル家ハ、地震ニ倒レ、或ハ破損、御城ハ全シ、潮ハ町ハ真如寺橋ヨリ北見通シ限リ、江ノ口堀筋ハ常通寺橋ヨリ、ハ常通寺島限リ、新町下知ハ海ニナル」との記録もある。 『南路志』の記録では須崎(現・)において筋は下郷村のより上方4 - 5町(海岸より約4. 5)、筋では吾井郷村(あいのごうむら)の為貞(海岸より約2. 5 km)まで潮が入ったという。 須崎では約400人溺死し糺池に遺体が流れ込み、内陸の神田村では遡上高18mと推定され諏訪神社が流された。 須崎八幡宮の神輿が流出し、4日後に伊豆下田で拾い上げられて新八幡宮として祭られ、その後伊豆では豊漁続きとなったが須崎から返還の要望があり返されることとなった (『南路志』 )。 久礼(現・)では津波が大坂谷、焼坂、長沢まで押し寄せ、焼坂麓の標高25. 7mの地点まで遡上し 、が流失し死者は約200人に上った。 『谷陵記』など古文書には、土佐の海岸各地で集落が全滅したことを示す「亡所」とか「潮は山まで」という記録が随所に見られる。 この「亡所」は特に土佐の西側で多く現れ、手結(現・)から榊(現・宿毛市)までが特に著しい。 は、10月26日(1707年11月19日)に領内における被害状況をに報告し、『公儀差出』には流家11170軒、損田45170余、死人1844人とあり、『丁亥変記』には藩主は1年間を免ぜられたことが記される。 この外、(鳥羽藩)、(宇和島藩)、(掛川藩)、()、(田原藩)も同様に参勤交代を免除されている(『小田原大久寺 元禄・宝永地震』 )。 豊後水道・瀬戸内海 [ ] では本町、裏町、新町、弓町、糀崎まで大潮が入り、では民家50軒が流失した(『谷陵記』)。 豊後臼杵(現・)では津波が三の丸侍屋敷まで押し寄せた。 また、内陸約5kmの付近の南津留や末広革道辺りまで潮が溢れたという記録もある(『温故年表』)。 豊後では、大手前に高さ5尺(約1. 5m)の津波が押し寄せ、潮の差込は昼夜7度に及び、「城内でも遠慮は要らぬ」と、町人らをに避難させた(『元禄宝永正徳享保日記』 )。 「村の古文書」によれば米水津(現・佐伯市)では養福寺の石段2段を残して浸水しその標高は11. 5mに及び、色利浦では10m、宮野浦では5. 7mに及んだという。 地盤沈下・に加え、地震動・津波による堤の決壊で瀬戸内海沿岸のやなどではが破壊され、遠江宇布見、尾張刈谷、伊勢山田・二見、紀伊新宮、備前岡山、伊予西条など各地でを中心に田畑に潮が入り破壊された。 から始まり、江戸時代に入って加速した新田開発件数は宝永地震以降激減し、開発の在り方に転換を余儀なくされた。 被害の全容 [ ] 地震および津波によって、合計で少なくとも死者2万人、田畑の損壊30万石を下らず、船の流出および損壊3000とされる。 『竹橋余筆』および『』に纏められた各の損害のへの報告数など、確かな数字の合計では死者5000人余とされ、流失家約1. 8万、潰家約5. 9万、半潰・破損約4. 3万、蔵被害約2千、船の流出および損壊約3900、および田畑の損壊約14万石および約1. 6万となる。 また大坂の文献次第で全体の死者数は大きく変るなど被害は全体としてつかみにくい。 地震痕跡 [ ] 宝永地震や過去のの津波堆積物や隆起痕など、地震の痕跡が東海地方から九州までの海岸沿いに見出されており、その間隔は300-400年程度で特に大規模な地震のみが痕跡を残したと考えられている。 静岡県、横須賀湊跡 : 隆起痕• : 津波堆積物• 静岡県、長谷元屋敷遺跡 : 層厚50cm - 1mに及ぶ津波堆積物• 三重県相差 : 津波堆積物• 三重県 : 津波痕跡• 、出雲崎および荒船崎 : 生物遺骸群集の調査、隆起による離水の痕跡• : 津波の高い流速による巨岩の移動、宝永地震および1361年のによると見られる痕跡有り• 大阪府、池島・福万寺遺跡 : 18世紀前半の砂脈• 徳島県、田井ノ浜の池 : 津波堆積物• 室戸岬 : 18世紀前半の海岸段丘• 高知県、蟹ヶ池 : 50cmに及ぶ津波堆積物、さらにこれを上回る紀元頃の津波堆積物もあり。 大分県、:2014年11月に噴砂痕跡が発見されており、この地震又は1596年(5年。 後にに改元)に起きたに伴う液状化の痕跡ではないかと推定されている。 大分県、間越龍神池 : 津波堆積物 災害記念碑 [ ] 被災地各地には宝永津波の被害・教訓などを刻んだが見られ、安政津波などと共に記されたものも少なくない。 宝永大地震供養碑 : 静岡県富士宮市芝川町 - 崩壊した白鳥山に向って建てられている。 : 三重県鳥羽市 - 後の高所移転で被害を最小限に抑えた。 地蔵菩薩立像 : 三重県河内 - 標高38mの地点に建つ。 瑠璃光山養海院 庚申碑 : 三重県紀伊長島町• 最明寺 大乗経碑 : 三重県南伊勢町贄浦• 仏光寺 津波流死塔 : 三重県紀伊長島町• 三界萬霊 : 三重県南伊勢町古和浦 - 陸地に三丈余(9m以上)の津波が揚り、民家が残らず流失した。 経塚 三界萬霊 : 三重県北浦町馬越 - 2007年に300周年の法要が執り行われた。 正念元心居士の墓碑 : 和歌山県周参見• 宝篋印塔 : 和歌山県すさみ町周参見• 富田権現日神社・津波警告板 : 和歌山県• 宝永津波の碑 : 和歌山県新庄町• 高波溺死霊魂之墓碑文 : 和歌山県• 印定寺合同位牌 : 和歌山県印南町• : 大阪府大阪市浪速区大正橋の石碑 - 安政津波では148年前()の宝永津波の教訓が生かされなかった。 浅川観音堂 : 徳島県海陽町浅川 - 津波の犠牲者を供養。 鞆浦大岩慶長宝永津波碑 : 徳島県海陽町鞆浦 - 慶長津波と共に記述。 津波地蔵 : 高知県高知市仁井田 - 津波遡上地点。 宝永地震による天然ダムの災害碑、柴尾の一本杉 : 高知県越知町 - 山体崩壊で天然ダムが形成され浸水。 萩谷名号碑 : 高知県土佐市宇佐町 - 安政津波と共に記述。 宝永津浪溺死之塚 : 高知県須崎市 - 池に遺体が筏を組むが如く流れ込んだ津波被害の惨禍を記述。 熊野神社震災碑 : 高知県中土佐町 - ・安政津波と共に記述。 震災碑 : 高知県黒潮町大方入野 - 安政津波と共に148年前(数え年)の宝永津波を記述。 池家墓碑 : 高知県土佐清水市中浜峠 - 安政津波と共に記述。 潮位碑 : 高知県宿毛市大島鷣(ハイタカ)神社 - 石段の39段目まで浸水。 村がすべて流失。 鷣神社石段・潮位碑 経済への影響 [ ] この地震による『両替年代記』の記録は「十月十四日〔〕 東海道大地震。 大地破れ、海洪波。 同十一月四日〔ママ〕、麓口より山焼け出、白日如夜、砂降こと雨の如し。 」とある。 『三貨図彙』では「十月四日五畿内ヲ始メ、東海道・南海道ノ国々大地震アリ、別シテ五畿内ハ強シ、十一月廿三日富士須走口ヨリ焼イデ震動ノ如ク、土砂大雨ノ如ク降リ、近国大ニ痛ム、コレニ依テ高直ナリ」とある。 この年の8月19日(1707年9月14日)には西日本を暴風雨が襲い、米も例年の6-7分の不作であり、宝永4年の相場は米は一石に付き120- 150、73- 93匁と前年の2倍程度に騰貴した。 また、「此節・・花満開シ、盛ンニ出、日々地震、十一月〔ママ〕四日大阪津浪シ、近国・京都大イニ地震ス」とあり、この時期の異常気象を示唆する記述もある。 10月13日(1707年11月6日)には幕府が停止令を出し、発行元に50日以内に正貨と交換するよう命じたため、震災も重なり、を始め各藩では資金調達に困難を生じたため財政が極度の窮乏に陥り、借の累増となった。 江戸幕府は諸国大地震に付きの高騰を防止するため、10月27日(1707年11月20日)に禁止の触書を出した。 寳永四亥年十月 一 今度国々地震ニ付、諸色高直ニ仕間敷候、末々直段上り可申哉と考、買置いたすへからす、品ニより蔵々を改、相背者有之は、可為曲事事 また、による灰金(の除去費用)として翌年閏正月7日(1708年2月28日)に「諸国高役金令」を公布、江戸幕府は各、らに100石に付き2を差し出させることとした。 その結果、幕府には40万両が集まった(『』)。 『蠧余一得』では宝永5年中に48万8770両余、1870目余が集まり、被災地救済には6万2500両余が支出されたとしている。 宝永6年2月3日(1709年3月13日)、のは新たにに就任する運びとなったに対し、幕府の財政の窮乏を訴え、より得られる収入は76- 77万両であるが、諸士の給料として30万両が消え、前年の歳出は140万両に達し、加えて営造費として70- 80万両が要るから約170- 180万両の歳入不足となるとした。 この急場を凌ぐためには金銀を改鋳し、出目を稼ぐ外にないと訴えた。 これに対しては、「去年の御物成を以て今年の用に充てることを重秀が知る処かはさておき、御聴を驚かして、その思うところを遂ぐべきため也」と改鋳に反対し、「悪質なものを出せば天譴 をうけて天災地変を生ずるおそれがある」として改鋳の議は中止となった。 しかし、翌宝永7年3月6日(1710年4月4日)以降、質を落としたなどが将軍の決裁を得ることなく内密に発行された。 大地震など相次ぐ天災の対策費として幕府が改鋳による出目を必要としていたのは事実であったが 、立続けの改鋳による低品位の銀貨が多量に発行され、がした。 これによりは終止符を打つことになった。 また、の頃までの将軍による親政から荻原重秀らの幕閣政治へと変貌する時代の転機でもあった。 地震・津波によって甚大な被害を受け、その復旧費用の出費を強いられたでは藩主のが質素倹約を徹底したを行い、その後将軍に就任した吉宗による幕府財政を立て直すためのへとつながった。 はおおよそ100年から200年周期で繰り返されており、次回起こると予想される地震とそれによる津波への対策が求められる。 脚注 [ ] []• - 震度分布による推定で、断層破壊開始点である本来の、その地表投影であるではない。 昼八ツ時の鐘をつく前に地震が発生したため13:45前後と推定される - (『板垣氏筆記』)。 02 hrとなる。 - 今井健太郎ほか「 」 『歴史地震』第26巻、2011年、 99頁。 甲(こう)は、「」などと同様、後の中心的地域に当てられる地名の一つ。 古文書記録にある建物の被害状況から、震度6以上の地域を590kmと推定した。 また地震後1ヶ月の余震域が東北地方太平洋沖地震の1. 4倍の、長さ830km、幅240kmと算出された。 02 M - 4. 01( 宇津徳治・関彰「」『地震 第2輯』第7巻第4号、1955年、 233-240頁、 :。 現在の高知市種崎。 種崎浦、種崎海岸。 天譴(てんけん):。 出典 [ ]• 震災豫防調査會報告. 2011年11月1日閲覧。 馬場弘臣「 」 『文明』第19巻、2014年、 33-43頁、 、 2017年12月18日閲覧。 安藤雅孝「東海沖か房総沖で大地震」『科学朝日』第34巻第3号、1974年、 34-37頁。 Mogi, K. 1980. 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大阪府/治水のあゆみ

水田 あゆみ 北 新地

一ヶ月後「 水田あゆみさんとお別れしました。 めぐみが忘れられなくて。 」 「このタイミングでお別れするのがどれだけ迷惑が掛かるか分かります。 でもお別れしました。 」 もはや驚きません、友永真也、ほんまポンコツですから。 スタジオで友永だけ出てきて申し開きをしてる。 「水田あゆみさんにフランスでローズを渡しました、何回バチェラーやっても同じことしてたと思います。 」「めちゃくちゃ考えて、真剣に考えて水田あゆみさんに渡しました、そこに関しては嘘はありません。 」って 友永構文そのままやん。 ほんまこいつ語彙力なくてむかつくわ。 「全部正直に言います、岩間恵さんとお別れして、どんどん恵さんを思う気持ちが強くなりました。 バチェラーの旅を終えて自分の気持ちに正直に動こうと思いました。 」 「僕が他の女性を思っているのにあゆみさんと付き合うのが不誠実だと思いました。 」 不誠実やって思うんやったら最初から岩間選べや、、、、 スタジオでは女子達から非難囂々。 岩城「正直見ててむかつきました(友永構文)みんな本気でやってんのに、 自分だけ意見変えれんの??ってわがまま過ぎる!!」。 よく言ってくれました、岩城さん。 代わりに僕がバラあげるわ。 その後水田さん登場。 ほんまごめんなさい、バチェラーポンコツ過ぎて。 友永が謝る。 「フランスで言ってたことは、嘘はないです。 あのとき言ってた言葉、あのとき全部自分で心にあった。 本当にすみませんでした。 」 水田「会ったら一発殴らせてもらろうと思ったけど、時が経った今、運命じゃなかった、それだけだと思えるようになった。 」 やっぱりこの子良い子。 新地のホステス10年やってるだけあってさすがですね。 「全部受け入れてます」って大人の対応の水田。 岩城は「 もう、バチェラーじゃなくて婚活パーティ行ったら!!」。 おっしゃる通り、 ボーナスでもう一輪、あなたにバラ差し上げますわ、岩城さん、下の名前知らんけどw 両親に「お前は何やってるんや、わがまま過ぎるやろ、あゆみさんの事考えろ」ってむちゃくちゃ怒られました。 ってまだ怒るんや、 意味ないよ31歳まで放置したんやから。 はい、秘密は水田さんと別れただけじゃないんです。 だよねー。 「 今、岩間恵さんとお付き合いしてます」 指原の目が据わり始める。 「水田さんの気持ちになったら悲しい。 好きです、このノリ突っ込み出来るキャラ。 岩間と付き合ったのは2ヶ月前、水田さんと別れてすぐ。 「僕が押して押して押して、自分の気持ちを全力でぶつけました。 」、 頭の中お花畑やな、こいつ。 しかも水田と交際中に岩間に会いに行ってたことまでカミングアウト。 これにはスタジオの女子達も唖然。 田尻「付き合ってる最中に別の方にアプローチしに行くって最悪じゃないですか?」友永「 アプローチしに行ったんじゃないです、自分の気持ちにけじめを付けに行ったんです。 」指原「それはずるい。 それはお付き合いしてる最中に会うのはおかしい」と激怒。 女子は切れまくってるけど、 正直言っていいですか?みんなこのポンコツからバラもらうために必死だったんですよ。 指原「会いに行って何話したん???」 友永「ずっと好きでした」 スタジオ中「アプローチやん(怒)」 で、スタジオに岩間が登場した。 「今は本当に真剣に友永さんとお付き合いさせて頂いていて、正直に話します。 」 「別れたと聞いて、ビックリしましたし、早いなと思いましたwスタジオでどうするんだろう??」はい、 あなたは女優になるつもりなんですね、昼ドラとかどうです?? 指原「友永が悪い。 」水田さんも「真也が一番悪い」。 何故か今田が意見を言わされる「バチェラーの気持ち分かるもん」と友永をかばう。 DJ中川から「彼女いるのに気になる人いたら今田さんは連絡するんですか??」 今田「彼女、全然おらへんねん。。。 」w 水田「気持ちは分かるけど、後から気付くのはやめて欲しい。 」 おっしゃる通りです、友永も岩間もポンコツです。 で もよかったよ、水田さん、あなたにはもっといい男ができますよ。 「神戸行く行かない問題はどうなったん??」 「 僕は東京に行くと決めました」。 むしろ心地良いです、最後までポンコツで爽快ですねー。 はい、見初めてから一瞬で最後まで見てしまいました。 アホくさくて仕方ないし、こんなヘンチクリンなバチェラーって初めてらしい。 シーズン1から見てる人にとってみたらこの友永には違和感しかないらしいですが、ティライミ的には「 バチェラー=友永」なんで、シーズン1とか2を見るには抵抗があります。 ほんまアホみたいな番組を見て、貴重な時間を使って、Blog書いて。 正直途中で見るの辞めようかめちゃくちゃ真剣に考えました、でも最後までこのバカな番組を制作してくれた Amazon Primeさん、感謝しかないです。 さて、この変な番組がむなくそ悪いバチェラーに浸食されてしまったので、これからはTomigaya Travelらしく、旅行記を寄稿に勤しんで行きたいと思います。 <ポンコツドラマの批評 Fin> reiwa-tsuredure.

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播磨町 播磨町のあゆみ

水田 あゆみ 北 新地

本記事はバチェラー3rdシーズンの考察です。 ネタバレが大いにあるので、バチェラーの内容を知りたくない方はご注意ください。 恋愛リアリティーショー 『バチェラージャパン』。 3rdシーズンも全話配信されましたが、ツイッターやインスタなどのSNS上でも大変話題になっていますね。 バチェラージャパン3rdシーズンは『』で配信中です。 僕もシーズン1、2と全てリアルタイムで観てきましたが、ネットの盛り上がり度で言えば圧倒的に今回がNo. その証拠に僕ら一般人だけでなく、芸能人・有名人もバチェラーについて発言をしています。 たとえばトップ女優の広瀬すずさんも、ツイートでバチェラー3についてつぶやいています。 あー泣いたー。 この時間に泣きすぎたー。 この気持ちのまま寝れないよ。 でも明日2回公演だよ。。 羊でも数えましょうか。。 たしかに広瀬さんがそうツイートしたくなるもわかるほど、ラストは衝撃の展開でした。 まさか最後にファイナルローズを受け取った水田あゆみさんが、あんな仕打ちを受けてバチェラーと別れることになるなんて…。 では一体どうすれば水田さんはバチェラーを結ばれることができたのでしょうか? 僕なりの『ifルート(こうすれば水田さんにとって違う結末だった)』を考察したので紹介します。 岩間恵(ブドウ農家のお嬢さん)• 水田あゆみ(大阪キタ新地の元ホステス) 2人の内でバチェラー友永真也がずっと好きだったのは、ブドウ農家の岩間さん。 しかし告白の直前、岩間さんから「あなたのことは男性として見れない」とハッキリと伝えられます。 なんと告白前に主人公のバチェラーが振られてしまうわけです。 この時点でバチェラー友永は大号泣。 そりゃ大好きな女性から好きじゃないと言われたら、泣きたくもなるでしょう。 一方でキタ新地の元ホステス・水田さんはバチェラーのことが大好き。 ローズセレモニーの直前には、友永さんへ口に出して『好き』とハッキリ言いました。 結果、バチェラーは最後の薔薇(ファイナルローズ)を水田さんに渡すのです。 これでめでたしめでたし…と思いきや、物語はここで終わりません。 バチェラーが 「やっぱり自分は岩間さんのことが忘れられない!」となり、番組収録後わずか1ヶ月で水田さんとは破局。 そしてなんと岩間さんと付き合ってしまうのです。 これには視聴者も参加女性も、何ならMCの指原莉乃さんもブチギレ! 中には腹が立ちすぎて、泣いてる参加女性もいました。 そりゃ水田さんの気持ちを考えると悲しくなりますよ。 広瀬すずさんが泣いたのも、水田さんの心境を思ってのはずです。 では一体どうすれば水田さんはバチェラーと幸せになることができたのか?続いてはその考察です。 ほんまにこれからも一緒に過ごしていきたいし、 将来一緒に歩んでいくパートナーになりたい。 私が真也の運命の人にありたいと思ってる。 あともう一個、言葉にしやなあかんことがあるねんな。 その言葉を私は重んじてて簡単には言いたくないけれど、今回が最後のデートになるかもしれないからちゃんと伝えなくちゃいけないと思って。 真也は何も応えなくてもいいからね。 好きです。 もうこれは完全に逆プロポーズ。 水田さんはバチェラーにあなたがことが大好きすぎて、これからもずっと一緒にいたいとハッキリと伝えます。 一見すると素敵な愛の告白に見えるでしょう。 しかし1人の男を取り合う状況においてこれは決して良い手ではありません。 断言しますが、この告白は完全に水田さんの作戦ミスです。 あなたがのことが大好きですと伝えて、友永さんに 『非モテコミット』することで、相手は水田さんが自分のモノになったと思い、完全に安心しきった状態になります。 この安心感は恋愛の駆け引きにおいて、悪い方に働くことが多いです。 ここまで好きアピールしてくる女性は、合理的にキープ扱いします。 事実、バチェラーは彼女対して「おれも好き」「おれも一緒にいたい」なんてことは一切言いません。 「おれもあゆみを思う気持ちがどんどん強くなってる」と言うだけです。 当たり障りはないけれど耳障りの良い言葉。 キープ女にかけるお手本のような内容です。 このシーンを観た瞬間、バチェラーは水田さんをキープ女、2番手以下としか見ていないんだなとよくわかりました。 恋愛ヒエラルキーで言えば、完全にバチェラー友永が上、水田さんが下の状態です。 ですので水田さんはバチェラーを落としたかったのであれば、ここまで好きという感情を表に出すべきじゃなかったです。 バチェラーの気持ちが岩間さんにある(岩間さんが好き)なら、彼を追いかけることなんてせず、自分も身を引く・興味のない・冷めた素振りを相手の感情を揺さぶるべきでした。 水田さんに対するナイナイ矢部の意見・考察が鋭すぎた 水田さんとバチェラーの食事デートの後、MC陣である今田耕司、オリラジ藤森慎吾、指原莉乃、さらにゲストのナイナイ矢部浩之、岡村隆史を交えたトークに入ります。 ここで今田さんと岡村さんの2人は水田さんの告白を大絶賛。 ホステス時代に仕事で「好き」と言わなかったのに、「好き」と言われたら誰でも落ちるやろと水田推しのお二人はキャッキャッキャと女子高生のように嬉しそうに話します。 しかし矢部さんだけは、冷静に異論を唱えました。 それが次の内容です。 それに比べて今田さん、岡村さんの恋愛ポンコツぶりときたら。 そりゃずっと彼らが独身なのも納得です笑 水田さんは最後にハッキリと気持ちを伝えて真也を突き放すべきだった エピソード10のラスト、いよいよ最後のローズセレモニー。 ファイナルローズ(最後の1本のバラ)を一緒になりたい女性に渡す場面です。 バチェラーはその相手に水田さんを選びます。 ただその後、自分が振ったはずの岩間さんに対する態度がまぁ女々しい。 半泣きになりながら 「ほんまに好きでした」となぜか愛の告白。 しかも岩間さんがリムジンに乗って立ち去ろうとする時に、 「めぐみー!めぐみー!」と大声で彼女のことを名残惜しそうに呼び続ける始末です。 その呼びかけに岩間さんは一切答えることなく、バチェラーを完全に無視してその場を立ち去ります。 端から見れば振られたのは岩間さんではなく、バチェラーの方です。 恋愛ヒエラルキーで言えば、完全に岩間さんが上の立場ですね。 これがバチェラーの振舞いかよと、観ていて情けなくなってきました。 水田さんはそんな彼をも受け入れます。 ですがその優しさは恋愛の駆け引きにおいては良くありません。 矢部さんが言うように、水田さんがバチェラーに安心感を与えすぎたのです。 この時に 「そんなに岩間さんがあなたの中で大きい存在になっているなら、もう私は一緒になれる自信が無い。 ファイナルローズも受け取れない。 そんなに彼女が好きなら私は身を引くから、今すぐ追いかければいい!」ぐらいハッキリと友永さんに伝えて、彼の安心しきった気持ちを揺さぶることが必要でした。 それができていれば、安心しきっていた友永さんの気持ちも揺れて、水田さんとしっかりと向き合い、結末は変わっていたのかもしれません。 【まとめ】水田あゆみには絶対幸せになって欲しい 本記事ではどうすれば水田さんが友永さんと気持ちを離さずに、別れないという結末を迎えることができたのかについて考察しました。 まとめると水田さんの態度・ふるまいが、恋愛の駆け引き的に悪手だったとは次の点です。 好きだと言葉ストレートに伝えた• 態度・行動でも明かに好きとわかる振舞いをした• 感情面で安心感を与えすぎた• 彼の意見を全て受け入れ、彼を持ち上げすぎた• 彼の気持ちを揺さぶることをしなかった• 彼が別の女を好きなことを受け入れた 上記の内容を見る限りは、男性にとっていい女のように見えます。 しかしそれは ただの都合のいい女。 矢部さんが言うように、2番手の女(言い方は悪いですがキープ)になりやすい存在と言えます。 ですので相手にとって自分が一番の存在になりたいのであれば、「好き好き」と正直に感情を伝えて非モテコミットするだけではダメ。 あなたが大切にしてくれないなら、他の男のところに行くからぐらいの揺さぶりは大切です。 とは言え、 彼女は人としてたいへん素晴らしい方。 あんな理不尽な振り方をした真也と、彼を男して好きになれないと言ったのに結局付き合った岩間さんの 2人に対してエールを送っています。 水田あゆみさん、インスタの投稿に僕も入れてくれてたんですよね。 なんて強い女性なんやと。 改めて思いました。 やっぱりあゆみさんに相応しい男性は僕じゃないなって。

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